半島大陸メモ
日本で地下鉄サリン事件を起こしたテロ組織。
現在はアレフと改名。この事件で破壊活動防止法が制定されたが、適用されず。
16 名前:朝まで名無しさん[] 投稿日:04/03/30(火) 01:20 ID:smSldiQc
オウムの麻原彰晃が朝鮮人という事実を隠しているのは
日本の
マスコミだけ。外国では周知の事実。
http://www.conspire.com/aum.html
オウム史 1990〜1994年
http://www001.upp.so-net.ne.jp/arti/7th/1990-1994.htm
308 名前:名無しさん@自治スレ参加募集中[] 投稿日:04/09/06(月) 19:54 ID:KT6Oi1IK
コインの汗とDNA一致 オウム元信者と、警視庁
【19:31】
警察庁長官銃撃事件で、警視庁は6日までに、
現場に残された
韓国の10ウォン硬貨に付着した汗やあかのDNAを分析、
オウム真理教元信者の30代男性のものと一致したことが分かった。
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=TKM&PG=FLASH
やっぱり、
韓国ブームだなw
【レス抽出】
対象スレ: 【麻原】アレフ教団【元
オウム真理教】の噂
キーワード: 茶々丸
81 名前:茶々丸[] 投稿日:03/02/08(土) 22:28
おまいら、ここで
オウム真理教のおさらいだ。もともと、
オウム真理教というのは1984年に麻原彰晃が開いた
オウム神仙の会というヨガ団体が起源だ。この結成当初からの信者が、教団の中核になる。
上祐、村井、早川、石井久子、高校生だった井上嘉浩。こいつらは教団最盛期にも最高幹部だった。
小さなヨガ団体が雑誌ムウに掲載され「空中浮遊」で一躍有名になった。そこから野望が始まる。
ちなみに、麻原はオウム以前に密教系の阿今宗の信者であり、そこで布教のノウハウを学んでいた。
また、諸君の三島由紀夫特集では、森田必勝のアルバイトしていた
右翼系出版社で働いていた過去も暴露されている。
もともと、麻原は政治家になる野心を持って熊本の盲学校を離れて上京した男。政治性というのが最大の鍵だよ。
82 名前:茶々丸[] 投稿日:03/02/08(土) 22:42
オウム真理教はすべての幹部に宗教名や独自の聖職階級をつけていたが、最高位の正大師はたったの5名しかいない。
マハー・ケイマ正大師・・・石井久子。愛人。
マイトレイヤー正大師・・・上祐史浩。元宇宙開発事業団。
マンジュシュリー・ミトラ正大師・・・村井秀夫。元エンジニア。
ヤショーダラ正大師・・・麻原彰晃夫人。
マハーパールバーティ・アーチャリー正大師・・・麻原彰晃三女。
このうち最後の二人は血族なので、政治的実体は無い。鍵を握るのは石井、村井、上祐の三人である。
考案の捜査や尋問でもこの3人は最重要人物として過酷を極めたはずだ。村井の死については凄い謎がある。
村井刺殺犯の徐裕行は
韓国人三世であるが、身元不明の時期が多く
北朝鮮との接触の可能性もある。
この男は一時広告会社を経営してたのだが、それはなんとオウムが衆議院選挙に出たときの提携先であった。
つまり、徐は村井とは顔見知りだった可能性がある。また、徐は自称
右翼だが実態の無い架空団体の構成員で嘘である。
そして最大の謎、それは徐は殺人犯でありながら早々に出所して自由のみになったのである。
83 名前:茶々丸[] 投稿日:03/02/08(土) 22:53
つまり、徐はオウムの秘密がばれると困る闇の世界から送り込まれた刺客である。
徐は秘密を漏らす危険のあるおしゃべりの村井を消すことにより教団の謎を守ったのだ。
上祐や野田成人、村岡達子などの残留幹部も決して秘密をばらせない。村井が消された恐怖でな。
この国を支配する闇の勢力がオウムを使って内乱を起こそうとした。
それが暴露されるのを防ぐために徐は村井を消した。そしてオウム事件の真相は闇に落ちた。
その闇とはいうまでも無く日本を「悪魔の国として未来永劫朝鮮民族に隷属させようとする」
統一教会の勢力である。
かつて位人身を極めこの国の首相官邸執務室の椅子に座った人物も関係してくるのだ。
ここで、やっと村井刺殺犯が
韓国人だったのが偶然じゃないのが分かっただろう。
そしてこの間自宅前で刺殺された
民主党国会議員は、ソ連留学経験者だった。
彼はオウム事件の渦中モスクワの人脈から情報を集めてテレビの取材でこういって笑った
「日本の政治家とも深くかかわっていますね」。その彼も今はこの世にいない。すべての真相が闇に。
84 名前:茶々丸[] 投稿日:03/02/08(土) 23:02
かつて政界のドンとして君臨した金丸信。1990年の
北朝鮮訪問で自民、社会、朝鮮労働の三党宣言をまとめた。
これで「植民地支配と
戦後45年の償い」として巨額の補償を確約した。外務大臣でも政府代表でもないのに。
何故、ここまで強引に
北朝鮮と国交樹立に向かうのか。
内閣調査室は宮沢首相に衝撃的な報告をした。金丸の妻は
北朝鮮出身だと。
朝鮮総連の執拗な懐柔策も功を奏し、日朝国交正常化は実現するかと思われた。
その矢先の1992年8月、佐川急便から金丸へ裏資金流用が検察からリーク、報道された。
これがきっかけで、金丸失脚、政界再編が起きる。で、この捜査は実は首相官邸主導だった。
金丸の
北朝鮮重視政策は、国家存亡の事態になると見た宮沢首相と後藤田法相が検察を動かして大政局を作ったのだ。
こうして、
北朝鮮と
統一教会の国家転覆日本乗っ取り計画はいったん頓挫した。そして第二の矢がオウムである。
85 名前:茶々丸[] 投稿日:03/02/08(土) 23:10
オウムについては謎が謎を呼ぶが、ここ数年ではやはり麻原弁護士資格失効だろう。
麻原の弁護士が、資格を剥奪されたのだ。すでに事件から数年経ってオウム裁判も脚光を浴びなくなっていた。
左翼的メディアを除けばこれは報道されなかった。ここに大きな鍵がある。
つまり麻原側は大きな秘密を握っていたから、弁護士は追放された。国選弁護人は国の回し者だ。
これで、麻原は法廷で爆弾告白する機会を失った。自分は傀儡だったと弁明する機会を。
これは、オウムを操っていた闇の勢力にとっては自分たちの姿がさらされないために必要であった。
こうして、村井同様麻原も口を封じ込められた。
北朝鮮や
統一教会とオウムを結ぶ糸はまた切れた。
91 名前:茶々丸[] 投稿日:03/02/13(木) 17:33
オウムの幹部の大部分は釈放されて、教団から抜けた。井上は無期懲役、新美は死刑判決受けたが。
ただ、上祐、石井はまた教団を指揮している。麻原の子供は学校入学で苦労。地元が反対運動起こすから。
麻原が溺愛した三女のアーチャリーは、ろくに学校行っていない。
教団幹部と一緒に、復活を画策している。麻原が、後継者に指名しただけあるよ。
まあ、麻原自身は
北朝鮮や
統一教会の傀儡に過ぎないんだけど。
オウムの武装化計画には巨額の資金が必要で、一万人の信者でアレだけできるわけ無い。
上九一色村の設備や軍事兵器はすごいよ。アレは、日本壊滅をたくらむ
北朝鮮、統一の援助だよ。
その統一と親しい政治家たちが、この事件の本当の首謀者。
92 名前:茶々丸[] 投稿日:03/02/13(木) 17:44
中曽根、金丸、山口敏男。この三人が鍵を握る悪党。
金丸は奥さんが
北朝鮮出身で、全盛期から内閣調査室に監視されていた。
1992年春には法務省に圧力かけて、入国禁止になっていた文鮮明を来日させた。
東京のホテルで密談したが、これは
北朝鮮問題だろう。国交正常化したら、いくら賄賂よこすかとかね。
1990年の
北朝鮮訪問で、国交正常化したら莫大な賠償金払うと約束したからね。
これで、内閣調査室が宮沢首相に報告。金丸を売国奴を見抜いた宮沢首相は排除を決意。
首相の支持の元、後藤田法相が検察を動かし、佐川急便事件が表面化。
こうして、政界のドン金丸は失脚し、朝鮮人の日本支配は一時遠のいた。
94 名前:茶々丸[] 投稿日:03/02/13(木) 17:53
だが、
統一教会には
中曽根という協力者がいた。昭和の参謀瀬島龍三と近い人物である。
昔の
韓国は軍政であり、軍の大物が実権を握っていた。そして、諜報機関が暗躍していた。
戦前の陸軍士官学校の卒業生である瀬島には、
韓国の権力者は後輩である。
韓国の上層部と瀬島、
中曽根はツーカーの間柄である。
統一教会と
中曽根の関係も親密。
こうして、
韓国の諜報機関・国家安全企画部と
統一教会と瀬島・
中曽根を結ぶ日韓ラインがある。
日本と
韓国にまたがる事件は、彼らが処理し、真相が闇に葬られてきたのだ。キム・デジュン事件が好例。
こうして、
オウム真理教は統一のダミーとして操られて登場した。
96 名前:茶々丸[] 投稿日:03/02/13(木) 18:03
麻原自身はただの詐欺師。空中浮遊なんてカルト雑誌のムウがいんちき写真掲載しただけ。
灯台でも世間知らずのバカはいる。大学のサークル勧誘で引っかかった友達いないやつが多い。
ただね、
北朝鮮・
統一教会から洗脳ノウハウ授かってんだよ、あの教団は。
東京都の宗教法人認証に尽力したのは、山口敏男。埼玉県選出だけど、金貰ってたから。
あまりにも強引な信者工作で、1989年に被害者が告訴しようとした。
横浜弁護士会の担当が、坂本堤氏。彼は、上祐、青山、早川、新美と直談判したんだよ。
そして、深夜に村井、新美、早川らに一家三人とも惨殺された。遺体は、北アルプスの山中に埋められた。
ここでおかしいのは、神奈川県警がオウムを捜査しなかったこと。
宗教うんむんじゃなくて、政治圧力だね。
北朝鮮、
統一教会がらみの。
教団を保持させるために。オウムの真の目的は、日本壊滅のためだから。
ここで、教団幹部を調べると朝鮮半島に出自のあるものが結構いるんだ。
創価学会と一緒。
97 名前:茶々丸[] 投稿日:03/02/13(木) 18:12
麻原自身は阿含宗出身で
統一教会には入っていない。
ただ、早川は
統一教会出身で、ほかの幹部も多い。
信者の勧誘、洗脳、寄付の強請、脱会者への制裁など共通点多し。
空手、柔道など格闘技の重視・傾倒もそうだね。
そして、最大の特徴は「
反日」。機関紙の内容はほとんど一緒。
天皇家を誹謗中傷して、国家を否定する。世間から隔離する狂信性。
そして、
自衛隊、警察への組織的浸透。いざというときのクーデターを念頭に置いた作戦。
国家転覆を書いた早川ノートには「1995年10月決行。もう戦うしかない」と書かれていた。
で、このときに国会占拠した後に首相指名されるのが山口敏男だった。
98 名前:茶々丸[] 投稿日:03/02/13(木) 18:19
日本にとって不幸だったのは、サリン事件当時の自治大臣が野中広務だった事。
金丸の腹心で、
北朝鮮シンパだったのは知ってるよね。
拉致事件で被害者を罵倒した男。
この売国奴が捜査の指揮を取ったから、
北朝鮮・
統一教会の情報は闇に葬られた。
国松警察庁長官狙撃犯は、
北朝鮮人だったかもしれない。平田は、国内潜伏だろうけど。
こうして、オウムが
北朝鮮の傀儡だった事実は闇に葬られたんだよ。
瀬島、
中曽根、山口、野中のラインでね。オウムの教団施設には、刻印の無い金塊があった。
そして、金丸の麻布の邸宅の地下にも刻印の無い金塊はあった。
そして現在、刻印の無い金塊というのは世界中でただ一国・
北朝鮮しか生産していない。
128 名前:茶々丸[] 投稿日:03/02/26(水) 16:53
朝鮮系だと林は有名だな。祖母が
北朝鮮出身だったと週刊誌に書かれた。
沖縄の離島に潜伏しているのをつかまった。平田は逃亡中。
浅生幾の「Xファイル消された真実」に、温泉宿の潜伏が載っていた。
東北地方の温泉宿に若い女性が住み込みで雇われた。
彼女はまじめだったが謎が多い。いつもカーテンで部屋を多い、
休日も外出しない。彼女はどこか性格が暗かった。
そしてある日突如、急に仕事を辞めるといい、行き先はどうして言わず去った。
彼女がいなくなってから、30分後パトカーがやってきて
この宿にオウムの信者で平田の恋人が働いていたという。
いつも閉ざされていた彼女の部屋には、二人分の食器と布団があった。
134 名前:茶々丸[] 投稿日:03/03/03(月) 15:09
サリン事件当時からオウムについては政治家の影が噂されていた。
日本の現在の体制を覆したい議員たちが、
クーデターを起こすためにオウムを利用したという。
この説は、左翼じゃなくて
右翼の議員の名が挙がった。
自民党の元首相とかね。
141 名前:茶々丸[] 投稿日:03/03/27(木) 18:56
麻原彰晃尊師、松本智津夫・・・神聖法皇。日本国転覆をたくらむ
統一教会の傀儡。
マハーケイマ正大師、石井久子・・・大蔵省大臣。麻原の愛人。
マイトレイヤー正大師、上祐史浩・・・
外務省大臣。ロシア支部長。
マンジュシュリーミトラ正大師、村井秀夫・・・科学技術省大臣。科学者部門責任者。
ヤショーダラ正大師、松本智津子・・・郵政省大臣。麻原の妻。
バハーパールバーティ・アーチャリー正大師、松本麗羅・・・神聖皇太子。麻原の三女。
ティローパ正悟師、早川紀世秀・・・総務省大臣。非合法活動部門の表の責任者。
アーナンダ師長、井上嘉浩・・・諜報省大臣。非合法活動の裏の責任者。
この7人は最低でも覚えてもらいたい。これから事件の全貌調べていくから。
142 名前:茶々丸[] 投稿日:03/03/27(木) 19:03
この仲でも一番麻原の信任扱ったのは、アーナンダなんだな。
アーナンダというのは仏陀釈迦無二が最もかわいがってインド全土布教に同行した弟子の名前。
自らを最終解脱者とみなす麻原にとって、高校在学中から慕って来たアーナンダは忠誠無比の家臣。
インドで仏教最大の聖地ブッダガヤに行ったときの話だ。
もっとも聖なる悟りの木菩提樹に、オウムの面々が勝手に腰掛けて座禅を組んだ。
怒った警備兵が銃口を麻原に向けた。すると、アーナンダは手を開いて身をもって防いだというのだ。
143 名前:茶々丸[] 投稿日:03/03/27(木) 19:10
アーナンダは、その実行力でめきめき頭角を現して、高学歴の多い教団内でも地位を固めた。
危険な任務ほど彼は尊師のためならと身を投げ出して実行した。
そして、麻原の携帯電話の番号を知る数少ないメンバーとなり、実行部隊の影のリーダーとなった。
地下鉄サリン事件以後の教団幹部の潜伏も大半は彼が指示を出していた。
警察庁警備局でも最初は彼の役職が、諜報省だとは知らなかった。
職務質問に引っかかった信者の磁器ディスクに極秘データーが記載されていて、
始めて諜報省と言う秘密組織が判明したほどだった。彼は表に出ない「闇」の男だった。
145 名前:茶々丸[] 投稿日:03/03/31(月) 16:58
オウムの教団武装化に最も貢献したのはティローパ正悟師こと早川紀世秀だ。
彼は坂本堤弁護士一家殺人事件の実行犯でもある。教団幹部の中では珍しく社会経験が長い。
ロシア語に堪能で教団の武器調達で何度もモスクワを訪れていた。
このティローパが教団の真の実力者だと言う説もある。
地下鉄サリン事件後に押収された早川ノートには、「われわれはもう戦うしかない。1995年10月、決行」と
クーデターをほのめかす言葉があった。
146 名前:茶々丸[] 投稿日:03/03/31(月) 17:06
で、このティローパは坂本弁護士一家殺人事件の犯人なんだけどこの事件も謎がある。
マンジュシュリー・ミトラ、ミラレパ、マハー・アングリマーラー、ティローパの4人が坂本宅に侵入。
この深夜の侵入が何故容易に行われたのか。公判ではなんと「坂本宅に鍵は掛かっていなかった」と言う。
周知のように坂本弁護士の被害者救済活動は、テレビ局によってオウム側に知らされていた。
この後にテレビ局側からオウムに見せましたよと言う通知は無かったにしてもおかしい。
なぜなら、坂本弁護士はすでにオウム教団と話し合いで会っているからである。
また、一般常識から考えても深夜には鍵をかけるのが普通だ。
坂本弁護士夫人の父も「都子、聞こえてますか」で事件最大の謎だとしている。
147 名前:茶々丸[] 投稿日:03/03/31(月) 17:15
上九一色村にある第7サティアンは化学プラントで日夜生物兵器の研究が行われていた。
ここに指揮を取っていたマンジュシュリー・ミトラ、ジーバカ、バジララティッサ到達光師がいた。
ここで作られていたサリン、インペリット、マスタードガスは彼らが組成表から始めた。
現代の大学で理数系教育受けてれば難しくないからねえ。
ただ、彼らにしても莫大な研究開発費は出せないよ。1万程度の信者しかいないオウム。
何故、彼らは山奥の村とはいえ広大な敷地を買い占められたのか。
そして、かつては広範な大衆的支持があった左翼でさえ成し遂げられなかった武装化を実現できたのか。
そこに日本と
韓国の権力者の闇の結合、
統一教会の影がある。
149 名前:茶々丸[] 投稿日:03/04/05(土) 11:48
こういう謎ネタって噂版じゃ話しにならない。芸能人のことしか頭に無いから。
やっぱりオカルト版に行こうかな。あっちは秘密組織に興味持つ人が多いから。
俺、こういうアンダーグランドの世界に興味あるんだけど、
裏事情知ってる人ってここにはいない。
統一教会、ヤクザ、政治、警察、過激派。
この五つがオウム事件の鍵を握っているのに。
150 名前:茶々丸[] 投稿日:03/04/05(土) 11:53
オウム事件の渦中に捜査の指揮の最高責任者の国松警察庁長官が狙撃された。
自宅マンションから送迎車に乗り込む直前に至近距離から、ライフルで。
この犯人は未だに捕まっていないが、逃亡犯の平田信じゃないだろう。
平田は高校の射撃部にいた程度の実力で狙撃を成功させるほどじゃない。
人を確実に射殺して逃亡するって言うのは実際難しいよ。
あれは
北朝鮮の狙撃手が実行したから足がつかなかったらしい。
よど号犯と一緒で聖域である
北朝鮮に逃亡されたらもう手が出ない。
238 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:04/02/28(土) 01:41
>茶々丸
読んどけ
http://www.aliceinwonderland.com/library/japanese_files/scrapbook_1999/aum_weekly_gendai_1999.txt
http://www.aliceinwonderland.com/library/japanese_files/scrapbook_1999/aum_weekly_gendai_1999.txt
麻原彰晃被告の側近は「
北朝鮮潜入工作員」だった(週刊現代1999年8月21日)
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週刊現代
1999年8月21日号
話題騒然
短期集中連載第1回
麻原彰晃被告の側近は「
北朝鮮潜入工作員」だった
オウム真理教と北朝鮮の間に密接な関係があるのではないか、という疑惑は根強くあった。この疑惑は、ある意味で真実であり、ある意味で間違っていた。というのも、オウムは秘かに潜入した北の
工作員によって、利用されていた可能性が高いからだ。事件の根底からの見直しさえ迫られる衝撃のレポート!
「よど号」田宮高麿の証言
「筋がちがう……」
そのひとことを聞いたとき、私は自分の耳を疑った。
オウム真理教の一連の衝撃的なテロ事件の背景に
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が絡んでいるのではないか、とする噂は事件当時からいくつもあった。そのことを
北朝鮮にいた「よど号」ハイジャック・グループのリーダー、田宮高麿(故人)にぶつけてみたのである。
「どこかで『よど号』も、今回の事件に絡んでいるのではないのか?」と。
田宮は、
「一連のオウムの事件にわれわれが関係しているのではないかという噂もあるようだが、関係などない」 と答えたあと、ポツリ、と冒頭のような一言をつけ加えたのである。
その衝撃的な言葉を聞いたのは、1995年6 月。サリン事件をはじめとする一連のオウム事件から2ヵ月近く経ったときのことだった。場所は
北朝鮮の首都・ピョンヤンにある「よど号」グループ事務所の一室でのことである。
田宮の言葉は、ふたつの「真実」を伝えていた。ひとつは、われわれはオウム事件に関与していないという釈明、もうひとつは、関与したのはわれわれではない、という肯定的な意味あいである。
北朝鮮の工作組織にはいくつかの指揮系統(筋)がある。田宮は「(われわれの指揮系統とは)筋がちがう」ということを言っていたのである。
しかし、田宮の衝撃的な一言は、私のなかに重く錨を下ろしたように残りつづけたが、その言葉の落ち着き先はなかなか見つからなかった。
ところが、最近になって不思議なことに気がついた。私は昨年、「よど号」のハィジャッカーたちの嘘と海外での秘密工作を暴いた『宿命−「よど号」亡命者たちの秘密工作』という本を書いたが、この本に
反論する政治的なパンフレットが
北朝鮮で出版されている。
執筆しているのは、当然のように「よど号」グループのメンバーたちだが、奇妙なことにそのパンフレットのなかでたびたび言及されているのが「よど号」=
北朝鮮と、オウムは無関係であるという主張なのである。
不思議なことは、私がその本のなかでオウム教団と
北朝鮮の類似についてふれているのは、500ぺージを超えるその本のなかで、たったの一行なのである。過剰といえば、あまりにも過剰な反応と言わざるを得なかった。私は、あらためて
オウム真理教と北朝鮮の類似に考えをめぐらさざるを得なかった。そして、一連の事件と「よど号」グループとの関係についても、である。
オウム真理教の一連の事件の背景には、たしかに
北朝鮮の影が何度も見え隠れしていた。教団幹部・早川紀代秀「建設省」長官に、数次にわたる訪朝歴があるのではないか、あるいはグルと呼ばれた教団の教祖・麻原彰晃(松本智津夫)の出自(実際、渡韓して調査にあたった
マスコミもあった)、教団と
北朝鮮の間での覚醒剤取引疑惑、
統一教会との関係、教団大幹部だった村井秀夫「科学技術省」長官刺殺事件の実行犯・徐裕行の
北朝鮮人脈と背後関係、そして国松孝次警察庁長官狙撃事件。荒川区の事件現場にはなぜか、
北朝鮮人民軍のバッジが落ちていた……。 しかし、いずれも
オウム真理教と北朝鮮を直接結びつけるには、これといった裏付けに欠けていた。「疑惑」の領域を出ることはできなかったのである。
だが一連の事件から4年を経たいま、われわれ取材班はこの「疑惑」の核心に迫る、決定的なキーマンがいたことを突きとめた。
村井に重用されて、
武器製造に携わった
この人物は日本人ながら、
北朝鮮と極めて深い関係を持っている。そして、一連の事件が起こる数年前にオウムの出家信者となり、幹部にのぼりつめていた。そして、麻原ら幹部が逮捕された後、なぜかオウムを脱会していたのだ。 オウムと
北朝鮮の関係について、これまでわれわれは大きな
勘違いをしていたのではないか。つまり、オウムと
北朝鮮はもともと密接な関係にあったのではなく、北から潜入した
工作員によって、オウムがうまく利用されていたふしがあるのである。そしてこの「北の
工作員」の一人こそが、われわれが突きとめたA(46歳)という男なのだ。
オウムが
北朝鮮に利用されていたとしても、もちろん麻原以下オウム幹部が犯した凶悪犯罪が免責されるわけではない。だが、一連の事件の中でも特に深い謎が残ったままの村井幹部刺殺事件、国松警察庁長官狙撃事件などについては、根底から事件の本質を見直さなければならないかもしれない。
私と取材班は、これまでに
日本国内はもちろん、ヨーロッパ、アメリカヘも飛んで取材を進めてきた。A本人にも接触している。その中でわれわれは、驚くべき事実に遭遇したのである。
Aが
オウム真理教に出会ったのは1980年代の末、海外でだった。Aは東京に住んでいるが、当時は一時的に旅行関係の仕事をしていたこともあり、度々ヨーロッパヘの渡航歴があった。
しばらくしてAはオウムに入信する。'89年(平成元年) 12月のことである。しかしAは、入信後もそのころ滞在していたスペインに留まっている。Aがモスクワ経由で日本に帰国するのは'92年(平成4年)5月、'93年にはオウム「科学技術省」で活動しているところが捜査当局にも確認されている。翌、'94年(平成6年)2月5日に出家、出家後はオウム「科学技術省」で活動していた。最初は第8サティアンで総務の仕事を担当したり、ヘッドギアの基盤をつくる仕事をしていたらしいが、村井幹部の声がかりで、山梨県富沢町にあった「清流精舎」と教団内では呼ばれていた施設に移っている。
オウムはこの施設で、ソ連をはじめ旧共産圏の軍隊で広く使われた「カラシニコフ(AK74)」型自動小銃等を密造していたと見られ、銃身内に旋条と呼ばれる溝を彫る「ブローチ盤」など特殊な工作機械を備えていた。つまり、サリンを作っていた第7サティアンと並んで、教団武装化の最重要拠点の一つだったわけである。
Aは、この重要拠点へと選抜され、同年の9月には、「沙長」という、いわば中堅幹部の地位へと昇格している。「清流精舎」での活動内容についてはこんな証言がある。「清流精舎では当時、自動小銃以外にもいろいろな装置の部品づくりも行われていましたが、最大の目標はやはり自動小銃。1000丁を目標に、工作機械10台と100名近いサマナ(出家信徒)とが投入され、尊師の肝入りで作業が進められていました。Aは設計図、人、機械とその全体の管理を任されていたのです。この仕事はかつて、古株の信徒が歴任してきたものの、誰一人として長く続かず、Aが抜擢されて、初めて落ち着き、作業もスムーズに進展するようになったのです。Aは人・物・時間等の管理能力に優れており、その点は省のトップの村井からも大いに評価されていました。尊師の覚えもめでたく、尊師の側にいることを許された幹部でした」(元信者)
つまり、Aは武器製造の担当責任者として高い能力を発揮し、その評価は教団内で著しく高かったのである。
チュチェ思想国際研究所に所属
しかし、Aはサリン事件をはじめとする一連の事件のあと、突然、オウムを脱会する。
周辺の友人には、
「サリンを作っているなんてて、まったく知らなかった。あんなひどいことをする宗教だとは知らなかった。もうオウムとは訣別した。自分がオウムに入信したのは、人を助ける宗教だと思ったからだ。
と語っていた。
実家の両親も、そのあたりの事情をこう語っている。「オウムに強制捜査が入って、やっと目が覚めたんです。出先で新聞や雑誌を読んでいるうちに、自分の間違いに気がついたようです。脱会したい、と言ったら、力ずくでも引き止められるのが分かっているから、本部の引き出しに脱会届を入れて、そっと抜け出してきたそうです。カネもなかったので、離婚した妻に電語をして喫茶店で待ち合わせ、カネを受け取って実家に帰ってきました」
'95年の7月22日の夜だった、という。
ここには、純粋な宗教心からオウムに入信したが、一連の事件で目を覚まし、自発的に脱会した、というストーリーが描かれている。
しかし、Aには当時の
オウム真理教の仲間や信者たちが誰も知らない秘められた経歴があったのである。それは、私を驚かせるに十分なことがらだった。
Aがオウムに入信する直前の数年間の詳細は不明である。なぜなら彼は日本にはいなかったからである。しかし、いま判明している彼の経歴だけでも、十分に驚くに価するだろう。なんと彼の前歴は、チュチェ思想国際研究所の事務局員だったのである。
チュチェ思想国際研究所といえば、
北朝鮮の指導的思想である「チュチェ(主体)思想」の宣布と、金日成主義の国際的なネットワークづくりを任務としている組織である。いわば、金日成主義者、チュチェ思想信奉者のあいだでも、一種のエリートであると言わねばならない。 金日成主義のエリートと新興宗教集団・
オウム真理教どの組み合わせは、本来、水と油のようなものであるはずなのだ。なぜなら、
北朝鮮の国家思想は、宗教をアヘンとして否定し、害毒を流すものとして規定していたはずだからである。
そのチュチェ思想のエリートたる国際研究所のメンバーだった人物が、身分を隠すようにしてオウム教団に入っていた、というのは穏やかではない。なぜなら、ふつう、チュチェ思想国際研究所のメンバーといえば、思想的に堅固で、金日成に対する忠誠心を持ち、優秀な理論活動をなしたものでなければならないからである。
また、諸外国の金日成主義者やチュチェ思想研究団体の横の連絡を任務とするため、いくつかの外国語にも堪能でなければならない。どのような苦境にあっても金日成首領を讃え、その思想を宣布し忠誠を尽くすものでなければならない。しかも、金日成主義者の常として、自らの思想を相手に理論的に説明するのではなく、知らず知らずのうちに誘導する技術を持っていなければならない。
北朝鮮へも度々渡航していた
Aの経歴をたどってみると、いくつかの新しい事実が分かってきた。Aは京都の大学に在学中に、このチュチェ思想と出会っている。大学在学中にチュチエ思想研究会(チュチェ研)に参加、和歌山方面でオルグ活動にも当たっていた。
「学生運動というよりは、チュチェ研の活動を熱心にやっていたはずですよ。チュチェ研が和歌山に支部をつくるというので、組織から指示されて和歌山にオルグに行っていた」(当時を知る知人) '80年にはチュチェ研のメンバーとして訪朝、約1力月、
北朝鮮に滞在している。
この訪朝は、現在判明しているものだけで'82年4月まで数度にわたり、そのうち長い時には約3ヵ月間にもおよんでいる。さらに、それ以降もモスクワを経由してたびたび長期間の海外渡航をくり返していた。これまでに判明しているだけでも、次のような渡航歴が明らかになっている。
1980年6月26日〜7月23日、
北朝鮮に渡航。
1982年4月1日、キム・イルソン研究会として訪朝。
1986年8月、モスクワ経由で出国。
1987年2月、モスクワ経由で帰国。
1987年3月、モスクワ経由で出国。
1987年8月、モスクワ経由で帰国。
1987年9月、モスクワ経由で出国。
1989年8月4日、スペインから帰国。
同月23日、スペインに出国。
その他、この時期に限ってもロンドンヘの出国、帰国、マドリード、モスクワヘの出国、帰国がくり返されている。 この時期はまだ旅行関係の仕事は始めておらず、きわめて不審な渡航歴と言わざるを得ないのである。
さらに'80年代中期からは、たびたびスペインでの足跡が確認されている。当時、スペィンには
北朝鮮の工作拠点や、「よど号」グループの活動拠点があったことを考えあわせると、直接の
北朝鮮渡航ではなくても疑惑はふくれ上がる。
また、Aが最初に活動していたチュチェ思想研究会(尾上健一主宰)は、日本の金日成主義者たちの組織で、その組織はきわめて不定型であり謎の組織とも呼ばれているが、日教組や保母、看護婦などの職場にも活動をひろげ、小中学校の教諭を中心に日本教職員チュチェ思想研究会などの組織も擁している。
この研究会の主要メンバーであった複数の女性活動家が、現在は
北朝鮮で「よど号」グループの「妻」として相変わらず
北朝鮮賛美のプロパガンダ活動を行ってもいる。実際、Aの元「妻」(46歳)は、このチュチェ思想研究会の幹部活動家のひとりで、「よど号」の「妻」のひとり金子恵美子とも親密な関係にあったことがわかっている。
ではAは、なぜオウムに入信していたのか。いろいろな背後関係が判明してくると、Aの語っているように素朴な宗教心からこの新興宗教教団に入信したのだとは、どうも考えにくい。Aのオウム潜入は、
北朝鮮の意志によるものではなかったのか?どうしても、この疑惑が浮かび上がってくるのである。Aのオウム入信は、偽装入信だったのであろうか?なんのために?
対日撹乱工作の予行演習か
北朝鮮には、金日成主義の用語でいう「領導芸術」という、人をうまく誘導していく技術がある。相手にそれと悟られることなく、人を動かしていく技術、一種のマインド・コントロールの技術と言いかえてもよい。もし、Aがこの技術をもって、潜入したオウム教団のなかで何人かの中心的人物を誘導していったのだとすれば、それだけで単純に解けるオウムの闇と謎がひとつだけは確実にある。
オウム真理教の一連の事件がおこり、オウムの名前が社会的にも知名度を高め、教団内部の事情がテレビや週刊誌の
マスコミで紹介されるようになって、いちばんの驚きは、私の場合、それがあまりにも
北朝鮮の思想、発想、機構、組織と似ているということだった。
他人をポアする(殺す)ことも、その人間を救済することなのだとする、あまりにも超主観的な
オウム真理教の発想も、
北朝鮮が日本人を「
拉致」することは結局、その対象となった人間を「地上の楽園」たる
北朝鮮に連れてきてやるのだから、いずれ相手からは感謝されるに違いない、という発想と酷似していたし、「尊師」という絶対中央集権の制度も、
北朝鮮のそれと似ていた。
ものの考え方だけではない。事件の直前にオウム信者がよく口にしていた「米軍がオウム施設を狙ってサリンを散布している」という言い方のなかにも、「米帝憎し」とする
北朝鮮的発想が入り混じっていた。そもそも「サリン」という言葉にしてからそうだった。
事件が起こってからにわかに「サリン」という言葉はふつうの言葉のように一般の人に語られるようになったが、それまで「サリン」という言葉は一般の人には馴染みのないものだった。たったひとつの例外、金日成主義者たちをのぞいては、である。なぜなら金日成主義者たちの必読文献であり数十巻からなる『金日成著作集』には、この言葉がたびたび登場し、金日成自身がサリン研究を呼びかけてすらいたからである。
では、教団内部に潜入した
工作員(これはAひとりとは限らない)は、そこで何をしようとしていたのだろうか。どのような政治目的があって、秘密の潜入活動をなしていたのだろうか。
これを理解するためには、
北朝鮮の対日工作の現状と目的を考えてみる必要がある。
北朝鮮にとってもっとも有意義な対日工作の内容は、じつは日本撹乱工作なのである。朝鮮有事を考えたときに、その後方基地に位置づけられている日本で、種々の機能を麻痺させることは軍事的にも
北朝鮮を非常に有利にする。
北朝鮮にいる「よど号」グループが「日本革命」の名のもとに工作活動をになわされているもの、内実はこの攪乱工作であった。それが、
北朝鮮の意志であり、狙いであった。オウムの場合もそのためにこそ、徹底して「領導」され、誘導され、利用され尽くしたとも言えるのではないだろうか。サリンをはじめとした一連の
オウム真理教のテロ事件は、日本攪乱工作(クーデター工作)の、いわば一種の予行演習でもあり得たのである。 Aはこれら一連のオウム事件のあと、ひそやかに教団内部から姿を消した。素朴な宗教心からオウムに入信して、一連の事件のあと、自らその宗教に不信を抱き教団を去った、とするストーリーは、じつは、ひとつの工作実践が完了したあとの撤退、というふうには読み替えられないだろうか。
Aは、オウムを脱会後、すぐさま海外への頻繁な渡航を再開している。
北朝鮮との接触をはかった可能性もないとはいえない。あらたな活動が再開されたとも言えるのである。そしてさらに取材をすすめると、
北朝鮮とAのさらに驚くべき接点が見つかった。
(文中敬称略・以下次号)
■取材協力/時任兼作、今若孝夫(ジャーナリスト)
「
オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた(週刊現代1999年8月28日)
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週刊現代
1999年8月28日号
話題騒然
短期集中連載第2回
「
オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた
潜入
工作員と「よど号犯」はスペイン・マドリッドで繋がった
自らの思想信条を隠して
オウム真理教に潜入し、幹部信者にまでなっていた
工作員A。
彼は、一連の事件で他の幹部が逮捕された直後にオウムを脱会すると、すぐさまスペイン・マドリッドヘと飛んでいた。そこは、ヨーロッパにおける
北朝鮮の工作拠点がある街だった……渾身のスクープ・レポート第2弾。
スペインヘの度々の渡航歴
オウム真理教と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)工作組織の接点、この謎を解く重要な鍵を握る人物がいた。
その男A(46歳)は、かつて日本の金日成思想信奉者の組織である「チュチェ思想研究会」でオルグ活動に従事し、のちに
北朝鮮の呼びかけで各国に創設された国際組織「チュチェ思想国際研究所」(尾上健一事務局長)の局員をもつとめていた。金日成主義者としてはいわば、ある種のエリートとも言えるだろう。たびたびの長期にわたる
北朝鮮への渡航歴もある。
そのAが、それまでの主義主張、思想的立場とまるでつながりのない
オウム真理教に突然、「入信」するのは'89年の12月。当時、長期滞在していたスペインからの在家入信だった。そして、取材をすすめると、Aのこのスペイン滞在自体が「チュチェ思想国際研究所」の任務とも密接に関係していたのである。
だとすれば、Aのオウム「入信」の動機を、単純に宗教心からだけと理解するのは、どうしても無理があるようだ。
ここで、私はあらためて金日成主義者たちの特徴的な活動のスタイルについて、注意を促しておかねばならない。
つまり、彼らの工作活動はつねに自分の思想信条を表に出さず、秘密裏に誘導していくといか形で行なわれるのが常である、ということをである。
この方法を政治的に体系化したものを
北朝鮮では「領導芸術」と呼んでいることは、前回もふれた。
この工作方法のもっとも分かりやすく具体的な(そして未熟な)例は、
北朝鮮に亡命した「よど号」のハイジャッカーたちによる、ヨーロッパの日本人留学生「
拉致」事件に見てとることができる。もちろん、彼らの「日本人獲得工作」(
拉致工作)の実態は、詳細に検証すればするほど、ただの「騙し」による誘導としか思えないのだが。
Aがオウムに「入信」した'89年末という時期は、今から振り返ってみれば、ちょうど「
オウム真理教」という新興宗教教団が急激に内部変質しはじめた時期にあたっている。
オウム真理教はこの時期から、なぜか急激に教団の非合法武装化を推し進めつつ、教祖麻原彰晃(松本智津夫)の選挙への出馬など、にわかに政治色を強めていた。麻原が「日本転覆」的な発言をし始めたのも、この頃だった。
Aは'92年5月、長期のスペイン滞在を切り上げ、「入信」後2年半を経て日本に帰国した。帰国後、しばらくしてオウム「科学技術省」で活動をはじめ、'94年2月には出家。
山梨県上九一色村のサティアンに入ってからは、村井秀夫「科学技術省」長官のもとで、自動小銃の部品など武器製造の本格的な活動をはじめている。
そして時期を同じくして、教団は外国からの兵器購入や軍事訓練に乗り出す。
こうしてみると、Aの日本への帰国と突然の宗旨替えも、何らかの極秘指令を受けてのものだった可能性が高いのである。
ここでAの渡航歴をあらためて検証する。
'80年6月の
北朝鮮への出国を皮切りに、'80年代前半にAは
北朝鮮への渡航を何回か重ねている。
'80年代の中期からは、モスクワヘの出国、帰国がたびたびくり返されているが、ここで注意を促しておきたいのは、モスクワからは
北朝鮮・ピョンヤンヘの朝鮮民航直行便(あるいはハバロフスク経由便)が飛んでおり、北京経由と同じく
北朝鮮入国の、もっとも普通のルートであることである。さらに興味深いのは、この時期からAのスペインヘの渡航も、何度かくり返されはじめていることだ。このスペイン行には、やはりチュチェ思想研究会の幹部活動家だったAの元妻(46歳)が同行していることもあった。
Aの頻繁な海外渡航は、「入信」して帰国する'92年以後も何度かくり返されているのだが、'94年2月に出家してからの約1年半のあいだは、ピタリと止まる。しかし、サリン事件をはじめとする一連の
オウム真理教テロ事件ののち、突然、才ウムを脱会('95年7月22日)して、おおよそーヵ月後には、Aの頻繁な海外渡航がふたたび再開されている。この手際の良さは感嘆に価する。そして、もっとも頻繁に渡航をくり返していたのが、またもやスペインだった。
中南米工作と
日本人拉致工作の拠点
では、なぜ、スペインなのか?
ピョンヤン〜モスクワ〜マドリッドと、これらの都市の名前がひとつながりのものとして連ねられたとき、私には明らかに一本の見えざる糸が見えてきたように思えた。この都市の名前の連なりは、まさに
北朝鮮工作組織の見えざる間のルートと明白に重なるのである。
これらの都市に、モスクワからの中継地としてコペンハーゲンあるいはウィーンを加えれば、その見えざる糸はさらに完壁なものになる。そして、じつはこのルートは、かつて「よど号」犯の「妻」たちが、ヨーロッパで日本人留学生
拉致工作のために、頻繁に
北朝鮮とのあいだを往復していたルートと同じものだった。
マドリッドは、
北朝鮮の工作活動の拠点として二つの側面をもっている。ひとつは、対中南米工作の拠点である。
「よど号」犯の「妻」たちが、頻繁にピョンヤンとマドリッドとの間を往来し、マドリッドでスペイン語学校に熱心に通っていた理由もじつはそこにあった。
私は『宿命-「よど号」亡命者たちの秘密工作』(新潮社)のなかで、彼らのヨーロッパでの工作活動の一端を明らかにしたが、その本の書かれざる一章は、じつはこの彼らによる中南米工作であったのである。
もうひとつが、
日本人拉致の舞台としての側面だ。そして、「妻」たちの活動と呼応するように、ちょうど'80年代の初頭から「よど号」犯たちも、彼らの活動拠点をマドリッドに作っていた。
北朝鮮にとって重要な意味をもつ工作拠点都市マドリッドに、「チュチェ思想国際研究所」局員だったAが頻繁に往来し、さらに数年にわたる長期滞留をつづけていた。これは偶然のこととは思われない。そしてAはスペイン現地でオウムに「入信」し、突然、そこでの長期滞留を打ち切り日本に帰国した。
スペインでは何があったのか?何が計画されていたのか?
いくつかの疑惑と謎がマドリッドという街で交錯し、そこに収斂されていくように見える。オウムによる一連のテロ事件が引き起こされてから、一時期
マスコミの取材はロシアとオウム教団の関係に集中していた。そのロシアとの関係もまだ全貌が明らかにされたとは言えないのだが、
オウム真理教と北朝鮮のかかわりの発端は、じつはマドリッドから始まっていたのではなかったのか?
マドリッドの街には、その謎を解く鍵が、隠されているように思える。私と取材班は、その答えを求めてスペインの首都・マドリッドに飛んだ。
国立語学学校スペイン語学科に在籍
アムステルダム経由のマドリッド便は、夜遅<にバハラス空港に着陸した。夏のマドリッドは夜半を過ぎてもまだ夕焼けが残っている。エコノミークラスの狭い座席に、十数時間身体を押し込められていた私は、疲労困憊の体だったが、滞在日数の余裕はあまりない日その夜のうちにこなしておかねばならない取材の予定があった。この日からはじまる数日間、私たちはこの異国の地で、がむしゃらな取材活動を繰り広げた。
もっとも私にとってマドリッドの取材と調査は、初めてではなかった。
北朝鮮の「よど号」グループによる「マドリッド作戦」(日本人獲得工作)の実態解明のために、以前にもこの街を飛び回ったことがある。
その時の調査で、私はこのマドリッドの街に張りめぐらされた、
北朝鮮工作組織の影を色濃く感じとっていた。
'80年の初頭、「よど号」犯の「妻」たちがここで繰り広げていた留学生
拉致事件の確かな痕跡も見つけ出していた。この街から、'80年代前半、複数の日本人留学生と旅行者が、彼女たちの手によって
北朝鮮に「
拉致」されている。
そのひとり、札幌市出身のIさん(当時22歳)は、「よど号」犯の「妻」たちに'80年4月、東欧旅行に誘われ、そのまま消息を絶った。熊本市出身の語学留学生Mさん(当時27歳)も、同様に彼女たちの手によって
北朝鮮に連れ去られ、消息は不明のままだ。
この留学生失踪事件から8年後、そのIさん本人からの手紙が突然、札幌市の実家に届き、「事情があって
北朝鮮で暮らしている」と書かれていた。当時は、マドリッドと
北朝鮮のつながりなど誰一人として想像だにできないものだった。しかし、その手紙の内容から、はじめてMさんや、'83年夏にコペンハーゲンから失踪していた、ロンドンの語学学校留学生だった有本恵子さん(当時23歳)の消息が判明した。これらが、いわゆる「欧州留学生
拉致事件」である。
「よど号」犯の「妻」たちは当時、マドリッドの下町の安いオスタル(ペンション・ホテル)や観光名所を舞台に、若い日本人青年を
北朝鮮に連れていく工作活動を行っていた。このとき彼女たちはマドリッドでアパートを契約し、工作活動の拠点としていた。
さらに語学学校などに在籍し、日本人留学生に親しく声をかけるチャンスを狙ってもいた。
また'88年5月、
日本国内潜入中に逮捕された「よど号」犯のひとり、最年少メンバーだった柴田泰弘(46歳)が、日本潜入中に他人名義の偽造パスポートを使用してたびたび渡航していたのもマドリッドだった。表向きは貿易業務の活動とされていたが、実際にこのマドリッドでは「よど号」犯の他のメンパーを含む
北朝鮮関係者と接触(
北朝鮮の工作組織の用語では≪接線≫とよばれる)していた疑いが濃い。
そして問題の男Aは、このマドリッドで長期滞在のかたわら、国立語学学校スペイン語学科に籍を置いていた。すでにスペイン語のかなり堪能なAが、さらに語学に磨きをかけようとしていたことには理由がある。国際的なチュチェ思想の連絡ネットワークを任務とする「チュチェ思想国際研究所」の役割としては、中南米圏とのネットワーク作りと連絡体制の強化のために、スペイン語の熟練は必要不可欠な課題だったからである。
そもそもAがスペイン語を学ぶきっかけは、チュチェ思想研究会の活動をしていた当時、「チュチェ思想国際研究所」発足にあたって、主宰者・尾上健一事務局長の指示を受けてのものだった、と言われている。Aの国内でのスペイン語学習にあたっては、「研究所」から研修資金が提供されていたともいう。
「中南米には多くのチュチェ思想研究団体や、
北朝鮮と
友好的な国が多数存在しています。チュチェ思想国際研究所の役割としては、それらの
友好国や研究団体との連絡のために、スペイン語は必要不可欠でした。尾上事務局長は当時、さかんにスペイン語の学習をチュチェ研のメンバーにもすすめていましたからね」
(チュチェ研関係者)
Aのスペイン長期滞在は、このことからも組織的な活動の一環だったことがわかる。
非常に印象の薄い人物だった
そして、さらに興味深い証言があらわれた。そのチュチェ思想国際研究所の尾上健一事務局長とAは、ある時期から意見が合わず、Aは同研究所をやめていたというのである。
「尾上健一事務局長と意見が合わずに研究所をやめていった人間は結構多いんです。尾上さんはこういうことを言うと怒るかもしれないが、極めて教条主義的な面があり、その点では反発する人も多かったのではないですか。彼は一種の独裁者でしたから」(同研究所をやめた関係者)
今回の取材のなかで、私たちは何度も尾上事務局長の言い分も聞くべく連絡を取ったが、現在にいたるまで取材には応じてもらえていない。
ところでAが、そうした何らかの事情で「チュチェ思想国際研究所」をやめていたのだとすれば、以後のAの活動について新しい可能性が浮上してくる。すなわち、ある時期からAと
北朝鮮の関係は、もっとダイレクトな深い関係になったのではないか、という疑惑である。
実際、チュチェ研でチュチェ思想の洗礼を受け、やがてそこにあきたらなくなって、より深い活動に入っていく例もこれまでにいくつかあるし、現在「よど号」犯の「妻」として
北朝鮮にいる何人かの女性たちも、同じ道を歩んだと言えるからである。また、チュチェ思想を捨てたわけではなく、チュチェ研から離れた人問には、より工作組織に近いところからオルグの声がかけられることも、過去に例がある。
私たちはマドリッド滞在中のAの足跡を追いつづけた。
マドリッド市内の国立語学学校には'91年6月から約1年間、スペイン語学科第三課程に在籍していた。
さらに私たちは、当時のAを知る知人の案内で、マドリッド滞留中のAのアパートも訪ねた。闘牛場に近い雑多な町並みの一角、マンションふうな建物の最上階だった。
「Aはある人の紹介があってここに住むようになったのではなかったかな。訪ねて来る人もあまりなかったようだ。
ちょうど湾岸戦争が起きた頃だったか、ガイドの仕事をしているようなことだったが、観光客もあんまり来なくて仕事がなかなかできない、とこぼしていた。それで日本に帰ったようだ」(当時のAを知る同じアパートの住人)
マドリッドのAは、近隣の人々のあいだで印象が非常に薄い。日本人社会とのつき合いもあまりなかったようだ。
「すすんで人づき合いをする人ではなく、印象が薄いが、旅行社のガイドのようなことはやっていたようだ。妻子を抱えてよく生活ができているな、と思っていた」(マドリッド在住の日本人)
そんなAが、実は度々訪れていた場所があった。マドリッドの下町にあるOというオスタルである。このオスタルは、かつて私が「よど号」犯の「妻」たちによる「日本人獲得工作」の実態を調査していたとき、何度も足を運んで話を聞かせてもらいたいと、訪ねたところである。私が調べたいと思っていた'80年代前半のころとはオーナーも変わり、当時の宿帳を見たいと、現在の経営者に頼んでも、
「以前のオーナーの許可がなければ見せられない。以前のオーナーがどこにいるのかは知らない」
と、取り合ってくれなかった苦い経験のあるオスタルである。「よど号」犯と
北朝鮮関係者の宿泊場所として頻繁に利用されていたのではないか、ど私が推測していたところでもある。
そのオスタルでAの足跡が出た。彼は前述のアパートを借りる前、このOに滞在していたという複数の証言が得られたのだ。A本人もそのオスタルを宿泊先にしていたことを認めている。当時の事情を知る、前オーナーを探し出すことが、どうしても必要になった。だが、マドリッドで得られた手がかりは、その前オーナーがどうやらマドリッドからアメリカにわたり、レストランをやっているらしい、ということしかなかった。
柴田泰弘と同じホテルに宿泊
取材班の記者がアメリカに飛んだ。ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルスとしらみ潰しにあたった記者は、ようやく前オーナーK氏(60歳)にたどり着いたのである。そして、そこで聞くことのできた証言は驚くべき内容だった。
「よど号の犯人が泊まったことがあった。うちに泊まったことがある学生から、手紙がきて、このまえそちらのホテルに泊まっていた人が、日本で逮捕されて新聞に載っている、といって新聞の切り抜きを送ってきた。うちに泊まっていた太ったおじさんが、実は『よど号』事件の犯人の一人、柴田泰弘だった。そのとき、その学生は犯人とは知らず一緒に、こ飯を食べたりしていた。その犯人は自分は『ロバの耳』だったか、そんな名前の輸入雑貨店を経営していると言っていた。彼が逮捕されてしぱらくして日本の警察からも連絡が入り、犯人が一緒に行動していた人は誰かとか、いろいろ聞かれた。彼は4〜5日泊まっていたが、私が『娘が結婚するからホテルを売らなきゃいけない』と話すと、親切に、『知り合いに買ってくれる人がいるかもしれないから、聞いてみる』と言ってくれた。逮捕直前、日本からきた手紙のなかにも『誰か知人で、スペインのホテルを継いてくれる人がいるかもしれないので紹介する』と書いてあった。ええ、今のオーナーとは親しくさせてもらっていますよ。なぜ、私の連絡先を知らないなんて言ったんでしょうか。ホテルを譲ったのは'91年の7月でしたね」
オスタルOは、やはり実際に「よど号」のハイジャッカーたちが利用していた場所だった。そのオスタルで、柴田とAの足跡がなぜか繋がったのである。そして驚くべきことに、この「よど号」グループの存在は、オウム事件の謎を解くうえで、重要な鍵を握っていたのだ。
(文中敬称略・以下次号)
■取材協力 今若孝夫、時任兼作(ジャーナリスト)
金正日総書記直筆の
「日本破壊工作」指令書の全貌(週刊現代1999年9月4日)
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週刊現代
1999年9月4日号
話題騒然
短期集中連載第3回
金正日総書記直筆の
「日本破壊工作」指令書の全貌
一連の「テロ事件」の謎を解くカギはすべてここに隠されていた!
松本サリン事件の被害者の遺族が
拉致、脅迫される事件が起きたばかりだが、このサリン事件をはじめとする「オウム・テロ」は、すべて、一通の指令書から始まっていた!?
北朝鮮で「親筆指令」と呼ばれる、この最高機密文書には、日本破壊・攪乱工作の指示が詳細に記されていた。驚情のスクープ第3弾!
'82年のピョンヤンから始まった
1995年3月20日、日本の首都・東京の中枢部で引き起こされた地下鉄サリン事件。刻々と報道される現場からのテレビ中継の映像を見ながら、私は一種、名状しがたい不安と動揺に見舞われていた。いま、目の前に繰り広げられているこの光景は、なんなのか? 誰がなんのために? 私の不安には、ある根拠があった。
そして、次第に事件をめぐる事情が明らかになってくるにつれて、私はその不安がひとつの方向に向かって形を取りはじめてくるのを感じていた。一度は「闇」から「闇」に潰え去った、秘められた幻のクーデター計画(日本破壊・攪乱工作)が、ふたたびはっきりと像を結びはじめるのを感じ取っていたのである。その発見は、私を戦傑させた。
この地下鉄サリン事件をはじめとする一連の
オウム真理教テロ事件には、まだ数多くの謎が残されている。いまでもすべての事件が解明されたとは言えず、未解決のままになっているものも多い。
そして、その謎を解く鍵のひとつは、じつは1970年に「よど号」で
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に渡ったハイジャッカーたちが握っていたのである。幻の日本攪乱工作は、じつは1982年の
北朝鮮・ピョンヤンから始まっていた。
私は、そのことについてここでようやく、新しい証言をはじめなければならないだろう。
その年、1982年5月6日、「よど号」のハイジャッカーたちは、「親愛なる指導者同志」金正日から、直接に、ある極秘指令をうけていた。その内容は、まさに「日本破壊・攪乱工作」であり、
北朝鮮では「親筆指令」と呼ばれる金正日自筆の署名のある、最高機密指令だった。
そして、その内容こそが、いま眼前で繰り広げられている
オウム真理教の一連のテロ事件と、そっくりそのまま重なるものだったのである。
私は一連の
オウム真理教による事件の報道を聞きながら、「これは、あの対日攪乱工作の形を変えた出現だ」と考えざるを得なかった。すべては、あの「よど号」グループに発せられた「親筆指令」から始まった、と考えられるのである。
オウム真理教による一連の事件が続発していた頃、私はたびたび
北朝鮮への渡航をくり返していた。「よど号」グループとピョンヤンで会うために、である。当時の私には、彼ら「よど号」のハイジャッカーたちが、1960年代の学生運動の高揚のなかで、
北朝鮮に渡ったまま帰国もままならない政治的遭難者と見えていた。彼らの帰国と、発言の場を国内で持たせるために、私は進んで支援者の一人となった。
しかし、私は彼らの発言と行動に、どこか違和感を感じはじめて、支援者の列から離れた。その、彼らとの出会いと訣別の経緯を含めて、「よど号」グループの工作活動の実態を書いたのが、『宿命−「よど号」亡命者たちの秘密工作』(新潮社)という本だった。私は、彼らの本当の姿がわかってくればくるほど、彼らのなかに不透明で異質なものを感じはじめていたのである。
オウム真理教の一連の事件が引き起こされた1995年春という時期は、まだ彼らとの関係がいまほど決定的な訣別にはいたっておらず、私は事件の直後に、ある重要な内容の会談のためにピョンヤンを訪れた。明かしてしまえば、
オウム真理教最高幹部のひとり、早川紀代秀「建設省」長官と、「よど号」グループ、あるいは
北朝鮮との関係について、「よど号」グループのリーダー・田宮高麿と話をつめる必要があったからである。早川については、事件直後からなにかと
北朝鮮との関係が噂されていた。会談の内容いかんによっては、オウム弁護団の今後の方針にも大きく影響のでる事がらだった。
金正日からの「親筆指令」の内容に入る前に、ここは、まずはその時のことから書きはじめざるをえないだろう。
「尊師」と呼ばれて怒った田宮高麿
会談は、結論を先に書いてしまえば、田宮の、
「早川幹部と『よど号』グループの間に直接的な繋がりは何もない」
という言葉で打ち切られた。
私の『宿命』という本にたいする
北朝鮮側からの批判が、パンフレットになって
北朝鮮で出されていることは第1回にも述べたが、じつはこのときのピョンヤンでのやりとりの模様が、そのパンフレットの中にも一部、出てくる。例によって嘘に嘘を積み重ねる手法のいつもの書き方だが、この稿をすすめるに当たって重要なことなので、若干の引用をしてみる。
「彼(筆者の私をさす)との交際の最後の時期、彼の。言動には不穏当なものが多かった。食事中、田宮同志に対して『尊師』と呼んで、われわれを不愉快にさせたことがあった。もちろん『客人』と思いがまんし、そのことは顔色にも出さなかった。当時、
オウム真理教事件が世間を騒がせていた時期だったが、この時期、なにかと彼は我々とオウムを結びつける発言をくり返していた。……『元
統一教会幹部だったオウムの幹部が、ピョンヤンにきた可能性がある。彼と(我々が)会ったのではないか』等々」
「(田宮が)『オウムが起こした一連の事件は、外国勢力やで』と語ったと書きながら、(高沢は)それが、あたかも共和国を指しているかのように書いている……田宮同志は明らかにアメリカのことを指してそう語っていた……」
などなどである。
このパンフレットには、そうした、やっきになってオウムと
北朝鮮の関係を否定する言辞が頻出している。その不自然さが、私にこの連載の文章を書かせるきっかけのひとつにもなっているのだが、彼らの書いていることは、もちろん事実と違う。
私は確かに、その訪朝時に、いささかふざけた意味合いと親しみを込めて、田宮のことを「尊師」と呼んだが、それは食事のときなどではなくて、空港に迎えに来てくれた田宮と一緒に、彼らの事務所に向かう車中でのことである。そして、本当のことを言ってしまえば、田宮が露骨に不愉快な顔を見せたのは、他の「よど号」メンバーと「妻」たちが、おもしろがって田宮を「尊師」と仲問うちで呼びはじめたときである。このときの田宮の不愉快そうな表情はいまでも、はっきりとおぼえている。
田宮と私はその時、
オウム真理教の事件をめぐって、いくつかのことを話し合った。
その時に、田宮はこの連載第1回目の冒頭にふれたような、衝撃的なひとことを吐いたのである。
「筋がちがう……」と。
「私たちだったらよかった」
彼は、同じときにこんなことも語している。
「早川は、むしろIC関係か何かのことで、来ていたのではないか? 共和国がそれらのものを必要としているのは事実や」
「(サリン事件について)あれは、外勢(外国の勢力の謀略)や。恨みをもってでないと、ああいうやり方はできないのと違うか。日本人なら同じ日本人をあんなふうに無差別に殺すことはできないはずや」
と。
そして、彼ら「よど号」グループが日本向けに発行しているニューズ・レター『お元気ですか』が事件直後にオウムの事件にふれて、「外勢の謀略ではないか」と書こうとした時、朝鮮労働党の指導員から検閲を受け、そこの部分の書き直しを命じられたというようなことも、田宮は語っていた。
これらの証言は、
北朝鮮側が
オウム真理教の事件にたいして、極めて神経をとがらせていたという証言にもなっているだろう。
そして、さらに衝撃的な言葉を、私はその時、田宮の口からではなく、「妻」たちのひとりから聞いている。
「私たちではないですよ。ほんとうは、私たちだったら(私たちがあそこまでやれたのだったら)よかったのに。でも私たちじゃないんですよ」と。
このひとりの「妻」が発した言葉の意味を、正確に理解するためには、「親筆指令」の内容をここで詳しく復元してみなくてはならないだろう。
ようやく、問題は核心に近づいてきた。
金正日の指令は、「よど号」の伸間うちでは「5・6書簡」の名前をもって呼ばれている。この指令が彼らのもとに届けられたのが、先にも書いたように1982年の5月6日のことだったからである。また、最後に麗々しくしたためられた金正日の署名の日付が、同じ5月6日とされているからでもある。そして1982年というこの年は、ちょうど金日成主席の生誕70周年を記念する年だった。
この金正日じきじきの「親筆指令」は、ほぼA4判に近い上質の用紙に数十ぺージにのぼり、大きなハングル文字で横書きに書かれている。「よど号」グループにあてた「書簡」の形をとり、表題や見出しはない。
最初に「前文」に相当するものがあり、そこにはこの「書簡」を「よど号」グループにあてて書くことの理由が述べられている。つまり、「よど号」のハイジャッカーたちの共和国への入国は、お互いに貴重な出会いをもたらしたという内容である。「諸君は金日成主義に精通した優秀な革命家として育った。諸君はすでに日本人民を指導する党としての役割を担えるように成長した。同志たちの指導のもとに日本革命を準備し達成する時期が、切実に迫ってきている」
さらに、このことは、「朝鮮革命の指導的な党である朝鮮労働党と、日本革命の指導的な党創建準備委員会(よど号グループのこと)の諸君との出会い」である、と。この言葉は、「よど号」グループが金日成に最初に謁見したときの、金日成の言葉に由来している。
以下につづく本文には、
「日本を金日成主義化するためには、どうしなければいけないか」
「金日成主義を日本革命に創造的に適用するためには、日本の状況に合わせた指導思想を、金日成主義思想のもとでつくっていかねばならない」
「日本革命の思想とは金日成主義のことである」
「金日成主義とは、労働考階級を領導階級(指導階級)とした勤労人民大衆の自主性を完全に実現させるための思想、と位置づけられる」
など、金日成主義とチュチェ思想の正当性がマルクス・レーニン主義よりも高位のもとして位置づけられており、あらゆる世界、社会での唯一の指導的思想であることが述べられている。
「
自衛隊工作」も指示された
退屈な話になってきたが、ここはもう少しだけ読み進めてもらいたい。
そして、それにつづく戦略・戦術論は、およそ次の三つに要約されている。この戦略・戦術論の展開こそが、ここで問題にすべき内容であるからである。
まず、第一に金正日が述べている最初の課題は、
一、主体的力量の準備
であり、次に述べられている第二の課題こそが、
二、暴力革命の準備
なのである。
これには少しばかりの解説が必要だ。わかりやすい言葉に要約して、解説してみよう。
二の「暴力革命の準備」とは、一言で言ってしまうと、
日本国内で軍事クーデターを引き起こせ、という指令である。そのための準備はすぐさまはじめなければならない重要な課題であり、決定的な時期を迎えたときに、その軍事クーデターは引き起こされねばならない、というものである。そのためには、
「軍隊(
自衛隊)工作も含め、あらゆる戦線で軍事クーデターを準備せよ! 軍にいる人間を獲得し、さらに、育成して送り込め! そして軍事クーデターに必要な人間をあらゆる要所要所に配置せよ! 革命的大事変を準備し、
日本国内に引き起こさなければならない」
というものである。
これは日本の新左翼過激派のスローガンではない。
北朝鮮という一国の指導者が、日本に金日成主義で革命を起こすために与えた方法、教示なのである。
話を次に進めよう。
では、そのためには、より広範囲に何が準備されなければならないか。これが第一番目の課題である「主体的力量の準備」の意味である。
「労働者階級を領導階級として結集させ、そのもとにあらゆる階層の勤労人民を結集させねばならない」
小難しい言い方だが、ここで金正日が言っていることは、要するにいつでも決起させることのできる人間を、大衆のなかに準備せよ、ということである。ここから必然的に導き出されるのが、その決起のため、あるいは軍事クーデターのための中核となる人間の育成である。中核層、中核的人間の育成については、金日成主義を受け入れやすい人間であることが望ましく、そのためには他の思想的な影響を受けていない人問ほど望ましく、しかも社会的な関心度の強い人間が歓迎される。
と、ここまで書いてくると、この人材の獲得と養成という方針は、なにやら別の脈絡で理解する読者もおられるのではないだろうか。そう、この「主体的力量の準備」という金正日最高指示こそが、のちのいくつかの「
拉致事件」=「よど号」のハイジャッカーたちによる「欧州留学生
拉致事件」を生んでいく、もとの発想になっていくのである。
軍事クーデター、日本攪乱工作の内容は、じつは、
日本人拉致工作と同根のものとして教示されていたのである。
失敗した「よど号」グループ
三つ目の課題内容は、朝鮮と日本の関係についてである。そこでは日本でこうした工作をし、クーデターと人の育成準備を行わなければならないことの意味付けが述べられていた。日朝の関係史や地理的条件、その近接性が述べられ、「日本帝国主義論」で締めくくられている。
「日帝という敵を倒すことがお互いの革命にとって有利な条件をつくりだす。(日本のクーデターと南朝鮮の金日成革命の)利害関係は密接なつながりがあり、切り離すことのできないものである」
いわば、日本のクーデターと南進(
韓国)革命は車の両輪である、という意味である。
では、アメリカについて金正日はどのような見方をしていただろうか?
現在の米朝交渉などの緊張関係のなかにあって、このことを興味深く感じる読者も多いと思うので、そこのところを紹介する。
「米帝は日帝をおさえると、有利な方につく。主体的力量が問われているというのは、こういうことである。日本が金日成主義化されるとアメリカはそのことを無視できない。アメリカは日本を見捨ててわが方につくだろう。敵はあくまで日帝であり日本の独占資本、資本家階級である。アメリカは闘う相手ではない」
あくまで、
北朝鮮にとっての敵は日本である、とはっきり宣言されているのである。このことは、これからの日本の対
北朝鮮外交においても心しておくべきことであろう。
そして、「よど号」のハイジャッカーたちが、「人道帰国」運動などで国内への帰還を願い、日本に帰国するべき理由もここにあったのである。彼らは、「祖国」という言葉を巧みに使いながら、そのじつ、対日工作の先兵として位置づけられ、活動してきたが、その理由も、すべてはこの金正日指令によっている。
しかし、この「指令」を実現しようとした「よど号」グループの工作活動は、1980 年代の後半に挫折した。国内潜入中だった柴田泰弘が逮捕され、潜入帰国をくり返していた「妻」たちにも、「
北朝鮮工作員との接触」を理由に、
外務省から旅券返納命令が出された(1988年)。さらに、旅券法違反等で国際指名手配も受けている。
「よど号」の対日工作は挫折し、ヨーロッパで繰り広げていた日本人獲得工作(
拉致)も、東欧諸国の崩壊などで前線基地と工作拠点を失い、成績を上げられなくなったのである。
オウム真理教が突然のように「日本転覆計画」を言いはじめ、教団武装化という変質を見せはじめた、ちょうど、その時期のことであった。これまでの連載で指摘したように、
工作員Aがオウムに潜入したのも、この頃である。
「よど号」グループが失敗した金正日指令の「日本破壊・攪乱工作」を、ちがう筋で、見事に実行したのが、オウムではなかったのか。「私たちができればよかったのに」という「よど号」の「妻」の、くやしさを込めたつぶやきな、そのことを如実に示していたのではなかっただろうか。
オウム真理教の事件は、それでは
北朝鮮にとってどのような意味を持つものだったのか。その意義はあくまで、日本攪乱工作の予行演習的な意味合いが強かったのではないか、と考えることができるだろう。それは日本の首都の中枢部・霞が関をターゲットにしたことでも窺える。日本の危機管理の杜撰さと、どのような動きが取られるのかというシミュレーションのデータを得るためにこそ、攪乱工作の第一歩は必要だった。
しかし、たったひとつ
オウム真理教の事件には、
北朝鮮側から見て金日成主義という「指導思想」が欠けていた。
オウム真理教には、チュチェ思想の注入が最初から不足であったからである。
だが、ここにおいて金正日の「野望」は、麻原彰晃の「夢想」とぴったり重なっていたようにも思えるのである。秘められた金正日の「極秘破壊工作」指令は、
オウム真理教の一連のテロ事件を解読するうえで、重要なカギである。
(文中敬称略、以下次号)
故金日成の
「毒ガス兵器」研究と麻原彰晃のテロ実行(週刊現代1999年9月18日)
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話題騒然 短期集中連載第4回
「オウムと
北朝鮮」の闇を解いた
高沢皓司
−ノンフィクション作家−
故金日成の
「毒ガス兵器」研究と麻原彰晃のテロ実行
韓国の情報機関は事件に「北」の影を察知していた!
一連のオウム事件が起こった直後から、
韓国が事件と
北朝鮮の関係に注目していたことはよく知られている。その根拠には、先週号で指摘した、金正日総書記の「日本破壊・掻乱工作」の存在があったことはいうまでもない。そしてもう一つの根拠が、故・金日成主席が指示した
「毒ガス兵器」研究だった。
オウム事件は「第2次クーデター」
「私たちだったら、よかったのに。でも、私たちじゃないですよ。私たちには、あそこまでの力量がなかった」
サリン事件をはじめとする一連の才ウム真理教テロ事件のあと、
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の首都・ピョンヤンを訪れた私の前で、「よど号」ハイジャック・グループの「妻」たちのひとりがそうつぶやいた。東ピョンヤンの、グループの事務所の一室、鞄の中身を整理しはじめていた私は、その言葉に思わず振り返った。
オウムのテロ事件が引き起こされたとき、その事件の性格と、
北朝鮮工作組織のやり方との類似性に、どこかで「よど号」グループも関与していたのではないか、という漠然とした倶(おそ)れを私はいだいていた。そのことを彼らだけでなく、「妻」たちにも問い質した直後のことである。
「よど号」グループは公的には関与を否定したが、その動揺は隠せないものだった。もっともこの動揺は、関与の事実というよりも、どこかで思い当たることがあるという、不安を表現した動揺であったのだろう。その背後には、1982年5月6日、金正日がピョンヤンの「よど号」、のハイジャッカーたち(現在の彼らの組織は「自主革命党」という党組織になっている)に与えた、「日本破壊・掻乱工作」の「親筆指令」があった。この「親筆指令」のなかに書かれていた日本攪乱工作の内容が、サリン事件につづく一連の
オウム真理教のテロ事件と、写し絵のように重なっていたのである。 金正日の幻の「日本クーデター計画」と、
オウム真理教のテロ事件のあまりもの類似に、私は戦慄したが、それは私だけでなく、当の「よど号」のハイジャッカーたちにも大きな動揺を与えていた。
しかし、この対日工作を担った「よど号」グループは、
日本国内への潜入帰国や「妻」たちのたびたびにわたる
北朝鮮と
日本国内の往来にもかかわらず、「指令」の内容を具体化させ、実行に移すことに失敗した。この幻の攪乱工作(クーデター工作)を仮に第1次クーデター工作と呼ぶことができるとすれば、オウムの一連のテロ事件は、まさに第2次クーデター工作と呼ばれるべきものではなかったのか。
韓国政府関係者も
「北が関わっている」
オウム真理教の一連の事件の背後には、はっきりと、
北朝鮮工作組織の深い闇と影がある。この疑惑は、事件直後から何度も浮上していた。『週刊現代』誌上でも、「闇の組織しとして当時も何度か取り上げられている。しかし、その実態はいまだに解明されたとは言えないままである。しかし事件当時から、いちはやくサリン事件をはじめとする一連のテロ事件に、
北朝鮮の影を読み取っていた国や機関は数多くあった。地下鉄サリン事件の直後、ニューヨークや香港では、毒ガスを使ったテロ事件を想定して緊急の対応策が検討されているし、防護・避難訓練が行われている。
このうちもっとも反応が早かったのは、もちろんというべきだろうが、
韓国だった。
東京の地下鉄サリン事件が起こったのは1995年3月20日。その翌日の3月21日にはソウルを中心に全国の地下鉄、鉄道、空港、デパートでの検問を強化、緊急の対策に乗り出している。
さらに、ソウルだけではなく釜山などの主要都市を含めて、地下鉄駅に毒ガス用の防護マスクと解毒剤を配備した。国民への対処要領の配布や、広報、呼びかけ、訓練なども実施された。
「毒ガスから逃げるときは防護マスクや濡れタオル、ビニールなどのありあわせのもので呼吸器を保護し、皮膚の露出を避ける」よう呼びかけてもいる。
これらの
韓国の対応は、一般的なテロ対策だけだとは、とうてい思われない迅速な処置である。明らかに
北朝鮮のテロ活動を意識していた。
さらに、
韓国の新聞『東亜日報』や『朝鮮日報』は、「
北朝鮮が毒ガスを使ったテロ行為に出るおそれがある」ことをはっきりと、紙面で警告していた。
韓国の政府と情報機関は、一連のオウムの事件とサリンという毒ガス兵器に、
北朝鮮の影をはっきりと読み取っていたのである。
北朝鮮が大量の毒ガス、サリンを保有していることを報道した新聞もあった。
「明らかに
北朝鮮のやり方だと想定されました。東京で事件が起こったなら、ほぼ同時にソウルでも同じような毒ガスを使った事件が引き起こされるのではないか、ということがいちばん心配されたことです。(
韓国)国内では、これまでに
北朝鮮の工作組織によるテロ事件が頻発しているという事情がありましたから」(
韓国政府関係者)という証言もある。この
韓国政府関係者は、また、「オウム事件の背後に、直接ではなくとも何らかの形で、
北朝鮮の工作組織が関わっているのは、ほぼ間違いのないこと」
とも、語っている。
まさに金正日の極秘「破壊・撹乱工作」の内容を、筋の違うものではあっても、
韓国の情報機関は明確に察知していたことになる。
最大の狙いは「
自衛隊工作」
では日本の政府、公安当局ではどうだったのか?
一連のオウムの事件のその後の捜査の状況を追いかけてみると、はなはだ不思議な事実にいきあたる。事件の背後に
北朝鮮の影が落ちはじめると、なぜか、捜査はそこで行き詰まり、突然、方針が転換されているとしか思えないような事態が頻出する。国松警察庁長官狙撃事件しかり、村井幹部刺殺事件しかり、オウム幹部の
北朝鮮渡航疑惑しかり、覚醒剤疑惑しかり……である。
取材を進めるなかで、どうやら、この事情は、あくまで一連の事件を一般的な刑事犯罪の枠のなかに閉じ込め、真相の隠蔽(いんぺい)を意図しているのではないか、と思われるような事態にも遭遇した。
もっとも、
自衛隊のみは事件の直後から、情報部門の組織改変をすすめ、「アジア地域の情報収集と分析の強化」を主眼に、「防衛庁情報本部」を設置した。では、なぜ
自衛隊だけが、このように
北朝鮮に関する情報収集の強化を図ったのか。それは、
北朝鮮がいろいろな形で対
自衛隊工作を仕掛けてきていることを、
自衛隊自身が察知していたからに他ならない。
ここで私は、驚くべき事実を初めて証言しようと思う。実は、「よど号」ハィジャッカーたちの対日工作の中で、最大の狙いは、他ならぬ「
自衛隊工作」だったのである。
「よど号」グループに下された金正日の「親筆指令」のなかには、次のようなことが述べられている。
「軍隊(
自衛隊)工作も含め、あらゆる戦線で軍事クーデターを準備せよ! 軍にいる人間を獲得し、さらに、育成して送り込め! そして軍事クーデターに必要な人間をあらゆる要所要所に配置せよ!」
ここで重要なのは「育成して送り込め!」という部分である。実際、「よど号」グループが注目し、実践に移そうとしたのもこの部分だった。メンバーの一人、柴田泰弘が国内に潜入した任務も、ここの部分の比重が大きかった。
彼らが考えたことは、国内で年若い青少年を選び、出身や身元の調査(
北朝鮮の工作用語で「人定了解活動」という)を終えたのちに、身元(
北朝鮮の用語で「出身成分」という)が問題なければ
北朝鮮に送り込む。
北朝鮮で思想教育を受けさせたのち、日本に帰国させる。この段階で問題を生じたケースでは、そのまま「
拉致事件」になるケースもあった。
日本国内から10代の青少年がそのまま消息を絶つことになる。
思想教育あるいはブレーン・ウオッシング(洗脳)がうまくいった場合には、若者は日本に帰国させられ、指示に従って防衛大学校を受験させられる。仮面の下に金日成思想を隠した将来の幹部候補生がひとり誕生する。防衛庁および
自衛隊に潜入
工作員が送り込まれたことになるのである。
この潜入
工作員は、普段は普通の隊員として目常生活を送り、自ら金日成主義の思想を語ることもなければ、それらしいそぶりを見せることもない。金日成主義の工作活動員にとって、自らの思想信条を明かさないことは工作活動上の鉄則である。ひそやかに、ゆっくりと
工作員は培養される。そして、ある決定的な事態が引き起こされたとき、この
工作員は、はじめて自分の任務を果たすことを要求される。
実際、そのような形で「よど号」グループの手によって
北朝鮮に送り込まれた人間は多数にのぼる。彼らの日本人獲得工作の秘められた、もうひとつの真の意図は、そこにこそあった。これは、彼らの政治組織拡大のため、「中堅幹部養成」要員としてヨーロッパ留学生を「
拉致」していた事件とは、はなはだしく事情の異なる工作の一面だった。
国内に潜入していた柴田泰弘が、「現役会」と称する高校生対象の進路指導の会に指導員として潜り込んでいたのも、じつは、そこに狙いがあったようである。
この工作活動は、'80年代の前半に、主として
北朝鮮と日本を往来していた「よど号」の「妻」たちによって担われていた。当時の獲得者の何人かは、すでに
自衛隊内部で幹部の地位にいてもおかしくはない。
もっとも、この工作活動は'80年代の後半には、より細分化され、工作活動の幅も広がり、実際には彼女たちがどの.ような工作任務に位置づけられているのか、自分でもわかっていた人間は少ないはずである。後年の横須賀のカフェ・バー「夢見波」の事件では、
北朝鮮の「
工作員」として店のママが逮捕されたことがあったが、彼女の場合のように、まったくのダミー要員であった例もある。
これらの例からもわかるように、
北朝鮮の工作組織の活動実態は、極めて巧妙で長期間のタイム・スパンのもとに計画実行されている。そして、複雑怪奇なのである。
『金日成著作集』に躍る「毒ガス」の文字
さて、この工作例と極めて類似した事件が、
オウム真理教の周辺でも起こっていたことを記憶されているだろうか?
千葉県習志野市の陸上
自衛隊第一空挺団が、サリン事件直後に実施した出動準備態勢の内容が、オウム真理敦の雑誌『ヴァジラヤーナ・サッチャ』に詳細に報じられていたという事件である。公表されていない内容も含めて、
オウム真理教側は詳細に把握していた。これレの情報は、
自衛隊内部からの漏洩と見られ、一躍、ニュースとなった。これらの事件の背景にも、対
自衛隊工作と表裏一体となった、ある種の工作活動の影がかいま見えている。そして、これもまた、かつて「よど号」のハイジャッカーたちが、国内で企てていた(そして失敗した)工作活動の実態と、極めて類似したものとして重なってくるのである。
教団武装化を唱えはじめた
オウム真理教が、武器の製造と兵器の開発に活動の重点をおいていったことは、すでによく知られている事実だが、しかし、ではなぜ、サリンであり、毒ガス、あるいは細菌兵器であったのか。これは、兵器の種類としても一種、異様なものに見える。
オウム真理教はこれちの兵器製造をどこから発想したのだろうか。またサリン事件のあと、
韓国政府が、なぜ、あまりにも用意周到に
北朝鮮を想定した防護訓練を実施していたのか。
これまでにも指摘したように、これらの兵器と武器開発こそは、
北朝鮮という全体主義国家を読み解く、ひとつの重要なキー・ワードそのものであったのである。
ここに金日成の毒ガス、あるいは細菌兵器についての大量の論文・教示がある。その中の一つ、『金日成著作集』に書かれた記述をここに紹介しよう。私の手元にあるのはピョンヤン版である。
「アメリカ帝国主義者が細菌兵器を使用しているからといって狼狽したり恐怖をいだく必要はなく、また、だからといって警戒心を高めず、細菌兵器にたいする対策をおろそかにしてもなりません。細菌兵器にたいする戦いは、ねばり強く行うべきです」「アメリカ帝国主義が朝鮮人民にたいし細菌兵器を用いているのは世人のよく知るところです」
「細菌兵器の使用に効果的に対処するため、……各種の予防薬を量産しうるよう科学研究活動を行うべきです」
「アメリカ帝国主義者は……朝鮮戦争で毒ガスや細菌弾までためらうことなく使っています」
「16力国の武カ侵略者は朝鮮民主主義人民共和国にたいし各種の現代兵器と細菌兵器、毒ガスやナパーム弾を使用しています」
「朝鮮人民に……殺人用細菌兵器、毒ガス、ナパーム弾を使用……アメリカ空軍は細菌弾と殺人用微生物の入った各種物体を投下しました」
これなどは、まるで
オウム真理教が最初に主張していた「サティアンを狙って、米軍がサリンを散布している」という主張とそっくりである。
誰が麻原に吹き込んだのか
また『金日成著作集』には「敵の細菌兵器にたいする闘争対策について」と題した一文もおさめられている。
もちろん、ここで述べられているほとんどの教示、内容は1950年当時の朝鮮戦争時のものである。しかし、これらの金日成教示は、毒ガス、細菌兵器という単語のオンパレードでもあった。
そして金日成はそれらの細菌兵器や毒ガスの研究を、ここに見るようにたびたび呼びかけていた。でも、ここで金日成が呼びかけているのは防護策と解毒剤の研究ではないか、と思われるかもしれない。しかし、防護策と解毒剤の研究こそは、それらの製造研究を呼びかけていることと同義なのである。その物が製造できなければ、その防護策と解毒剤の研究もできない。防護策を研究するためには、まずそれを製造する技術を手に入れなければならない。
金日成がそれらの研究を呼びかけているというこの事実だけが、この場合、極めて重要な意味を持っている。
このことは、かつて「反核」運動を背後で操りながら、実際には「核」開発の研究を推進した例でも明らかであろう。朝鮮戦争以降、
北朝鮮では毒ガス、細菌兵器の研究が、国家的課題として進められたことは、いまでは疑う余地のないことになっている。
そして、金日成の著作、教示に親しめば親しむほど、これらの「言葉」と兵器としての重要度は、金日成主義考の頭脳に強烈にインプットされることになる。
オウム真理教が毒ガスや細菌兵器の開発に手を染めはじめていたのは、そこに
北朝鮮工作組織の浸透があったとすれば、けっして偶然ではないのである。
では、誰が、これらの知識を、麻原彰晃をはじめとする
オウム真理教の幹部に吹き込んだのであろうか?
あるいは誰が、どのように
オウム真理教を「反米帝」テロ組織、
北朝鮮型の組織体系として育成し、誘導していったのだろうか。
私たちは
オウム真理教に潜入したAというチュチェ思想国際研究所(尾上健一事務局長)の元局員を追いつづけた。しかし、これだけのことをAひとりがやったのだとは、とうてい思えない。
私たちはさらに、教団内部の
北朝鮮コネクションを追いつづけた。そして、そこに「
工作員」Aに連なる「
工作員」B、「
工作員」C、D、E、F……という、
北朝鮮工作組織につながる者たちの隠された姿を捉えることになったのである。
(文中敬称略、以下次号)
■取材協力 時任兼作、今若孝夫(ジャーナリスト)
「潜入工作員」Aが全ての疑惑に答えた(週刊現代1999年9月25日)
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話題騒然 短期集中連載第5回
「オウムと
北朝鮮」の闇を解いた
「潜入工作員」Aが全ての疑惑に答えた
オウム入信の目的から「よど号」犯との関係まで
高沢皓司
−ノンフィクション作家−
まさに「対決」という言葉がふさわしいイ.ンタビューだった。講談社ノンフィクション賞を受賞した高沢氏の鋭い質問に、最初は努めて冷静だったA(46歳)が、徐々に追いつめられ、渋々、事実関係を認めていく。そして取材の最後には、こうつぶやいたのである。
「僕の身は危険でしょうかね---」と。
深夜電話を卸けてき走謎の男
時計の針は、午煎-時を少し回っていた。突然、電話が鳴った。マドリッドでのことである。夜の底から伝わってくる男の声が、「そちらが探しているAという男のことを、よく知っている人間が見つかった」
と言っている。
昼間の男だった。
私たち取材班は、
オウム真理教に潜入していたとみられる
北朝鮮「工作」組織の実態を追いかけて、スペインの首都・マドリッドに来ていた。Aは、そうした疑惑の濃い一連の人物のなかでも、とりわけ不可思議な経歴を持つ男だった。
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)への度々の渡航歴、チュチェ(主体)思想研究会会員、チュチェ思想国際研究所の局員という経歴。そして、ヨーロッパにおける
北朝鮮の重要な工作拠点である、スペインでの長期滞在とその後の頻繁なマドリッドヘの渡航。 そのAは、滞在中のここスペインから
オウム真理教に入信し、目本への帰国とともに出家して、教団施設内で武器製造に携わっていた。1995年の一連の
オウム真理教テロ事件のあとは突然に教団を脱会し、ふたたび頻繁な海外渡航をくり返している。 前々日の昼間、私たちはこの電話をかけてきた日本人の男と、はじめて接触していた。ごく一般的な取材のあと、Aのマドリッドでの生活ぶりを質問したのである。本来ならば、私たちの取材は、この男に対するかぎり、そこで終わるはずだった。ところがここにきて、その男からの深夜の電話である。「いまからホテルに行ってもいいか? 証人を連れていく」 男は電話口でくり返していた。
「……わかった。OKだ。それではロビーで」
ロビーに降りると、まだ人の姿があちこちに見えた。夜会の終わりだろうか、着飾ったドレス姿の女たちも見える。フラメンコの旋律が耳に届いた。夏のマドリッドの夜は、たしかに遅い。しかし、それにしても深夜の1時半だ。どこかで疑念が首をもたげるのを感じていた。
しばらくして男の姿が見えた。
最初に聞いてきたのは、私たちのその日の動きと、どこまで取材の成果が上がったのか、ということだった。言葉を選んで、慎重に対応する。業を煮やしたのか、いきなり男が言った。
「Aはオウムですよ。自分では隠しているようだが、彼はオウムにまちがいない。スペインに来てまで、何をしようとしていたんですかね。Aのことは、ここにいる彼がよく知っていますよ」
男に促されるようにして、連れられてきた証人と称する第二の男が口を開いた。日本語。朴訥(ぼくとつ)な話し方だ。ふと、暗記した台詞をそのまま話しているのではないか、という印象すら受ける。
「ええ、あれはAが日本に帰国する1ヵ月ほど前のことですが、オウムの本を持ってきて、内容が自分の考えとよく合っている、自分も会員になりたいと思っている。だから日本に帰る、と。そう、本以外にも尊師の書いた文章だというもののコピーも持っていました」
「それから『スペインには支部がないから、そのうちこっちにもつくりたい』というようなことも言っていました。それ以前は、そんなことを言ったことはありませんでしたが。
Aはあまり人付き合いがよくなくて、ひっそりと行動していたようなので、ほかにも勧誘された人間がいたかどうかはわかりません」−−その話を聞いたのは、いつ頃のことですか。「ええっと、Aが帰国する頃でしたから'92年です……」−−オウムと言われたときにすぐに分かりましたか。「ええ、すぐに分かりました。いろいろと問題のある宗教でしたから」
Aと
北朝鮮の関係を隠す意図が
私たちは彼の証言を興味深く聞いていたが、この答えを聞いて、あらためて疑念が湧き出してくるのを感じた。どこかが少しだけ、ずれている。そんな不協和音を感じたのである。
1992年、Aがスペインでの長期滞在を切り上げて日本に帰国する当時、
オウム真理教の名前がそれほど有名だったとはとても考えられない。
教団の犯罪はまだなにひとつ露見しておらず、世界を震撼させた一連のテロ事件もまだ実行されていない。なによりAが、これから日本に帰国して出家しようとする時期のことである。
オウム真理教は、世間的にはまだローカルな新興宗教のひとつに過ぎなかった。しかもこれは、日本ではなくスペインでの話である。 話の最後に、私たちはマドリッドを舞台にした「よど号」のハイジャッカーたちによる「
拉致」事件のことを話題にした。話のなりゆきというものだったろう。「どうやら、いまでもマドリッドには
北朝鮮の工作拠点があるようだし……」 その一瞬、電話の男の視線がきつく鋭さを増し、こちらを刺しつらぬくのを私たちは、はっきりと見ていた。
この話には後日談がある。くだんの男が、私たちが取材を終えて帰国したのちにも、私たちのことを誰彼なく聞き出していたという話が噂となって伝わってきた。さらに、あの日の深夜の顛末話すと、普段の男を知るほとんどの関係者が首を傾げた。そして、私たちはごの男が、やはり「マドリッド在住の他の日本人とはどこか違う人物」(男の知人)であるという証言や、
日本国内で
北朝鮮と密接なつながりのある人間であることに、ようやく辿りついたのである。 では、これはいったいどういうことか。
北朝鮮と関係の深い真夜中の電話の男が、同じく
北朝鮮と関係の深いAのことをあしざまに非難している。Aは、オウムの信徒で、いかにも悪いやつだ、と。
私たちは、そこで恐ろしい疑念に突きあたった。 男の深夜の来訪の意図は、Aの背景から「
北朝鮮」という絡みを極力取り除き、隠し通すことにあったのではないのか。そのためにこその電話であり、不自然な「証人」だったのではなかっただろうか、と。
「Aは単純に
オウム真理教信者であり、あいつは
北朝鮮とはなんのつながりも持ったことがない」
と私たちにアピールすることが目的だったのではあるまいか? 私たちは、問題の男A本人に、どうしても一度、詳しく話を聞く必要を感じていた。
精惇で猛禽類の鋭さをもった目
Aと連絡がとれたのは、それからしばらくのちのことだった。Aは最初、話をするべきことはなにもない、と頑なに取材を拒否していた。何度かの電話でのやりとりのあと、しかし、ようやく私たちはAに直接の疑惑をぶつけることができた。 Aは精停な顔つきで、がっしりと鍛えられた体つきをしていた。目の表情に時折、猛禽類の鋭さが宿る。ただ、なにがしか陰りが感じられたのは、気のせいだったのだろうか。
Aは自分がチュチェ思想研究会の活動をしていたことも、
オウム真理教にいたことも、すぐにすべてを認めた。
「いまは、どちらもやめていますが……」
話はチュチェ思想とのかかわりから始まった。−−チュチェ研にかかわった経緯は?
「高校時代は全共闘の運動が盛んで、(生まれた)地元の広島大学には中核派が多かったのですが、僕自身はまだノンポリでした。1969年に京都の大学に入り、自治会の活動をやっていました。卒業は'74年です。部落解放運動や朝鮮問題などをおもにやっていました。でも、セクトの運動にはそれほど熱心になれませんでした。 大学の3〜4年の頃、チュチェ研の人間と知り合い、人間が中心であるというその思想と響きのよさに引かれて、活動にのめり込んでいきました。でも、最初から組織生活を強いられ、窮屈だなあ、という印象が強かったです。そう思いながらも、ずるずるとつづけて、組織のなかでの役割もだんだん大きくなっていったんです。 その後、支部長として、ほかのメンバーとふたりで和歌山にオルグに行ったんですが、結局、うまくいかなかったですね。多くて4〜5人しか集まらなかった。 そのころ、東京からチュチェ思想国際研究所に来ないか、という声がかかって上京しました。
当時の事務局長は尾上健一さんでした。そこで4〜5年間、研究員をしていましたが、'85年には辞めています。私にとっては、研究所内部のあり方に不満がつのるばかりで、なにより尾上さんに対する反発が大きかった。そのころ同じチュチェ研の仲間だった妻も、別の理由ですでにやめていました」 取材班は、チュチェ研、さらには国際研究所時代のAを知る尾上健一事務局長に何度も連絡を取っているが、彼からの応答はこれまでのところいっさいない。Aの話をつづけて聞くことにする。
−−尾上氏への反発とはどんなものだったのか。「口ではチュチェ、チュチェと言ってるわりには、その思想に反して人間的には堕落しているような印象を受けました。強権的で厳しく、ちょっとしたミスに対する処分の厳しさにもうんざりさせられましたね。私が研究所を離れたのは、チュチェ思想そのものに反発したわけではなく、所属した組織そのものへの反発でした。何度か、戻ってこい、と言われたこともありましたが、もう、気持ちが駄目でした」
Aは、チュチェ思想そのものに幻滅したのではなく、組織への反発だった、という。研究所はやめたがチュチェ思想を捨てたわけではない、という他の人物がいることも私は知っている。
「チュチェ思想はすばらしい」
−−いまでもチュチェ思想は間違っていない、と思っていますか。「チュチェ思想自体は、人間中心という意味で、すばらしい思想だと思っています」では、どうして才ウムに入信したんですか。
「純粋に自分の宗教心からでした。どこかの組織の指示で潜入したということではありません」
−−しかし、チュチェ思想と
オウム真理教では、あまりにも隔たりがあるように見受けられますが。
「潜入したということではありません。オウムのことを当時はゴキブリも殺さない暖かい宗教だと思っていましたから」
−−でも、オウムは無差別なテロ事件を引き起こしています。「オウムには、ヴァジラヤーナという教えがありましたから……」 ヴァジラヤーナの戒律には、殺人を正当化する教えが含まれていることは知られている通りである。オウム真理の教はこの教えに法って人をポアしてきた、といわれている。
--スペインにはなぜ?
「チュチェ思想国際研究所にいたとき『南米からもいろいろな人や資料がくるから、お前、翻訳をやれ』と言われたのがきっ加けです。大学の第二外国語がスペイン語だったこともあって、研究所から金を出してもらって、語学校に2年半ほど通っていました。チュチェ研をやめてから、何ができるかを考えたときに、スペイン語を生かすことができれば、と考えてスペインに行こうと考えたんです。.語学留学です」---質問を急に変えることになりますが、柴田という男を知っていますか。「いえ、知らない。どういう男ですか?」
「よど号」ハィジャックのメンバーですが。そ.の柴田が何度か泊まっていたマドリッド市内のホテルに、あなたも何度か泊まってますよね? Oというオスタルですが。
「知らないなあ……」
−−あのオスタルは、
北朝鮮の工作拠点にされているとの疑いもありますが。「えっ、そうなんですか? 僕はぜんぜん知らないですよ。あっ、2〜3日、泊まったことがあったかもしれません。おばちゃんがいますね、たしか……」
−−あなたは、当時、
北朝鮮の「
工作員」だったのではないですか。すべての相関図の中心にあなたの存在があるのですが。
「とんでもない。僕は100パーセント、潔白ですよ。正直言って、そんなことを北から頼まれたことも、やったこともいっさいありません」−−いまは、どうですか。
「もちろん、潔白です」
ここで質問者は、Aのマドリッド滞在時に周辺にいた、
北朝鮮と関係が深いと思われる人間の名前を何人かあげた。いずれも当時、親しく付き合っていたとされる人たちである。
−−○○さんを知っていますか?
「知らないなあ」
−−○○氏のことは?
「知らない」
−−○○氏はどうですか。
「記憶にないなあ」
しかし、これまで冷静に対応していたAが、わずかに動揺を見せたのはこのときである。そして、このときと、あと一度だけだった。これだけの直接的な質問をぶつけられながら、Aは終始、その冷静さを崩さなかった。ときおり、眼光がするどくこちらを射抜いた。私は、そこに金日成主義者の強固な意志をみたように思った。−−じつはマドリッドでは、あなたについて悪い噂が流れています。「えっ、なぜですかね。半年くらい部屋にこもって、ヨガの修行をしていたことがあったので、そのせいかな」−−○○氏(先述した深夜の電話の男)のことは知っていますか? 彼も京都にいたはずですが?
「えっ、それは知らなかっ.た。彼もチュチェに?」−−なぜ、あなたについて悪い噂が広がっていると思いますか。「チュチェ時代に『あいつは日和見主義的な立場をとっている』と思われていたからでしょう」
−−
北朝鮮には何回くらい行きましたか。
「3回。そのたびに比較的長い期間を向こうにいました。一度は3ヵ月くらいいたこともあります」
−−そのとき「よど号」のメンバーとは会いましたか。「いえ、僕は会っていません。代表団としていった時など、ほかのメンバーは会った人もいたようですが」
ここでAは意外なことを言った。
北朝鮮に何度か滞在していた時、黄長ヨプ元朝鮮労働党中央委員会書記とは何度も会ったことがある、というのである。黄は金日成、金正日父子の側近中の側近である、超大物だ。彼のチュチェ思想研究はこの黄長ヨプ書記から直接、指導を受けたものだったらしい。
黄書記は、その後、1997年2月、
韓国に亡命し、世界中に衝撃を与えることになったのだが、Aからそのことについての感想を聞くことはできなかった。ただ、この話のなかで、Aが日本のチュチエ思想研究気のレベルよりははるかに深く、金日成主義とチュチェ思想にのめり込んでいたのだということだけは、わかった。
もう一人の潜入
工作員は医師
−−いまの
北朝鮮についてどう思っていますか? あるいは金正日についてなど。「チュチエ思想については、いまでも間違っているとは思わないけど、
北朝鮮という国のことになると、僕なんかが何かを言うというものではないと思うんです」−−
オウム真理教に入ったのも北の指示ではなかったのですか。「ありえない話ですよ。チュチェのメンバーで、
工作員になっている人間なんていないはず。上からそんな指示を受けることもないし、北の御用機関になることもありえない」
−−金日成主義には「領導芸術」という言葉があるように、知らず知らずのうちに相手を誘導していく技術というものがある。優秀なチュチェ思想の活動家であるあなたにとって、それは容易いものではなかったのか。心理的な誘導というか、相手が自分の意志であるかのようにひとつの方向を選んでいく、という……。 Aの顔色が、一瞬、さっと変わった。そしてこのときが、冷静沈着なAに、わずかに内面の動揺がかいま見えた2度目だった。
「あなたは、領導芸術という言葉を、そんなふうにしか理解していないのか!!」 言葉は激しく、そう言い放ったAだったが、次の瞬間には、即座に冷静なAに戻っていた。印象的な一幕だった。
−−しかし、いろいろなデータは、あなたがそうであってもおかしくないことを指し示している。悪い噂もささやかれはじめている。もし、あなたがスケープ・ゴートにされているなら、その疑惑を晴らす意味でも、もっと本当のことを語るべきではないか。
「たしかに自分の目標を持って入り、その目標を達成できずに組織から出てきたわけだから、自分なりに総括はすべきだとは思う」 時間はあっという間に過ぎていた。これだけの話を終わって時計を見ると、すでに話しはじめてから2時間以上が過ぎていた。このインタビューの内容は、できるかぎりAの発言を正確に再現するようにつとめた。取材班の立場だけでなく、Aの言い分もはっきりと伝えておきたいがためである。結局、Aは私たちの疑惑をすべて否定した。
別れ際、Aはふっと、
「僕は危ないですかね……」
と言った。
「ひとりで歩かない方がいいかもしれませんね」 と、私は言った。
「告発するなら、味方になります」.と私は付け加えた。 さて、ここで私は、このAに連なるBという疑惑の「潜入
工作員」について、そろそろ語りはじめなければならなくなった。Bは'62年生まれ。長野の大学の医学部を卒業し、共産党系の病院に入局。その後、
日本国内における
北朝鮮の工作活動拠点の一つとの疑惑がある、東京都内の病院に、なぜか突然、転職し、さらに
オウム真理教附属病院で医師として働きはじめる。
「Bは特別な信徒だったので、よくおぼえています。'94年に入信後、すぐに幹部待遇(師補)となってホーリーネームをもらい、麻原とも直接にいろいろとやりとりをしていました。彼の冷然とした態度、違法行為をも平然と行う姿が教団内部でも印象的でした」(元信老の証言)
私たちは、このBについて、音信の途絶えていたAに連絡をとった。すぐさま、代理人から、今後いっさいの取材に応じる気持ちはない旨の通告があった。 しかし、その翌日のことである。Aから、ふたたび代理人を通じてメッセージが届き、
「Bという人については知りません“私は、医師と接触することはほとんどなかった」
とあった。
(文中敬称略、以下次号)
■取材協力 今若孝夫、時任兼作(ジャーナリスト)
もう一人の
「潜入工作員」は林郁夫の右腕だった(週刊現代1999年910月2日)
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話題騒然 短期集中連載第6回
「オウムと
北朝鮮」の闇を解いた
もう一人の
「潜入工作員」は林郁夫の右腕だった
電気ショックによる記憶消し、薬物使用した洗脳…
北朝鮮の"人格改造技術"を
オウム真理教附属病院で実践した男
オウム真理教が、薬物や電気ショックを使って信者を「洗脳」していたことはよく知られているが、こうした恐ろしい手口は、すでに
北朝鮮で実践されていたという。オウム病院に潜入した
工作員Bは、この非合法活動に手を染めていた。しかもこの男は、麻原さえも「洗脳」できる立場にあったのである。
高沢皓司
−ノンフィクション作家−
麻原彰晃の寵愛を受けていた
オウム真理教を過激なテロ行為に誘導していったと思われる幾人かの疑惑の人物。 これらの人物像に共通するのは、いずれも教団内部ではそれぞれに重要な立場を占めながら、あくまで目立った存在ではなく、あたかも影のようにひっそりと息をひそめて存在しているということだ。
したがって、彼らは、これまでの厖大な
オウム真理教の
マスコミ報道にも、ほとんど登場したことがなく、その姿を明確には露出させてはいない。 これから、ここで語りはじめなければならない疑惑の「潜入
工作員」B(37歳)についても、元信者の次のような証言がある。
「Bは
マスコミ的には華やかな人物でも有名な人間でもありませんでしたが、教団内では重要なポストにいた人間でした。でも、なぜ、彼は逮捕されなかったのでしょうか? あれだけのことをしておいて、彼だけが逮捕をまぬがれているということが、そもそも解せません」
私たち取材班が追いかけていたBは、教祖・麻原彰晃(松本智津夫)の側近医療団の中にいた、心理療法に長けていたといわれる一人の医師である。彼は教団内部でも特別な扱いを受けていた、不思議な人物といわれる。「Bは特別な信徒だったので、よくおぼえています。似年の4月に出家するとすぐに、師補という立場の幹部待遇になってホーリーネームをもらい、麻原とも直接にいろいろとやりとりをしていました。私たち(元)信者の間でも、不思議な人物として強い印象が残っている人です。
教祖の寵愛を受け、医師として麻原の面倒をよくみていたようです。また、教団内の活動においても重要な仕事をまかされ、医療部で医療部長の立場で、附属病院の院長だった林郁夫の右腕として、かなり危ないことを平気でやっていたようです。 ワークといって、イニシエ一ーション(秘儀伝授)など、
オウム真理教の独自の修行があったのですが、いまから考えると、あきらかに違法行為だと思われるようなことを平然と行なう冷酷そうな姿が印象的でした。Bの名前を聞くと、まずそのことを思い出します。それにもかかわらず、彼はあの事件のときに逮捕されていないですよね。いままでずっと不思議だったのです」(事件後にオウムを脱会した元信者) 取材班はBの足取りを追った。そして、Aの場合と同じように、奇妙な事実に行きあたった。闇のなかにひっそりと身を潜める疑惑の男。そのBにも、驚いたことに
北朝鮮(朝鮮民主主義人氏共和国)との接点が浮かび上がってきたのである。彼ら「影の工作者」たちの背後には、なぜか共通して、金日成主義とチュチェ思想の影が濃く横たわっている。
北朝鮮系の病院に突然転職した
ここではまず、Bのプロフィールを追ってみよう。 Bは1962年生まれ、1988年に信州大学医学部を卒業し、N中央病院に勤務した。地元では共産党系の総合病院として有名だ。
「信州大の医学部からは、ほとんど勤める人はいないですね。悪く言えば給料は安いし、仕事はつらい。よく言えばマジメ。
Bは中肉中背で、真面目なタイプの学生でした。大学では学部の空手部に入っていました。遊んでいるところは見たことがありません。本人は共産党員ではなかったと思いますね。当時、民青にいたら、盛んにビラ配りなんかしていたはずですが、Bがやっているところは見たことがありませんし(大学の同窓生) 学生時代のBに、取り立てて変わったところはなかったようだ。ただ、他の学生があまり行きたがらない病院を選んだということぐらいだろうか。 BをN中央病院に誘った当時の関係者は、
「いい人でしたよ。誠実で真面目な方でした。純粋な医療を信条としている病院だから、選んでくれたのではないですか」
しかし、この病院との出会いが、Bをして政治や社会主義というものに目覚めさせたのかも知れない。Bは『赤旗』を購読するようになり、やがて共産党に対する批判も仲間内で口にするようになった。
Bは、この病院で奇妙な事件を起こす。当時、入院中だった難病の患者を、病院側に無断で転院させてしまったのだ。その紹介先が、東京・中野区の
オウム真理教附属病院だった。
オウム真理教内では「AHI」(アストラル・ホスピタル・インスティテユート)と呼ばれていた施設である。「温熟療法」と称して、50度もあるお湯に信者を入浴させ問題になったところだ。
BはN中央病院に勤めはじめた直後の1989年6月に、
オウム真理教に入信していた。 N中央病院の事務局長は、この無断転院事件についてこう証言する。「オウムだったなんて、誰も知りませんでしたよ。入院患者を連れ出してオウムに誘った事件を起こすまでは……。そのときは当時の院長が厳重注意をして一応残ってもらったんです。まだオウムがいろいろと事件を起こす前のことでしたし、危機感というか差し迫ったものがなかったですから……。でも本人がいづらくなったのでしょう。消えるように辞めていきました」
N中央病院を辞めたあとのBは、突然上京し、都内・足立区のN病院に再就職している。このN病院は
北朝鮮系の病院として有名で、内科待合室の壁にはいまも「朝日親善」などと書かれた標語が掲げられている。
院長は高齢だが
北朝鮮では有名人で、この人の名を冠した通りや病院が、ピョンヤンにつくられている。一説には金日成・金正日親子の医学的な相談役の立場にもあったのではないか、とされる。この夏にも
北朝鮮を訪れ、8月下旬に帰国した時には、金正日の糖尿病治療にあたってきたのではないか、と噂された。 疑惑の「潜入
工作員」Bは、このN病院に紹介者もなく突然あらわれて就職し、1992年6月から1994年3月まで約2年間、勤務していた。 前出のN中央病院の事務局では次のように語っている。「普通だったら新しい病院から、身元や業績確認の連絡がうちに入るはずなんですが、それが一度もなかった。新卒を採用するわけでもなし、うちにいたときに事件を起こしているわけで、当然問い合わせがあると思っていたんですが、結局ありませんでした。B先生が履歴書で申告していないのか、病院側が尋ねていないのか、理由はいまでもわかりません」
しかし、さらに不思議なことは、当時すでに
オウム真理教に入信していたBが、なぜ
オウム真理教の病院施設に行かずに、このN病院を選んだのか、ということである。このことは、医師としてのBが、N中央病院では内科の医師であったのに、その後のオウムの病院施設では、心理療法や催眠療法、脳に電気ショックを与えるなどの治療法を積極的に取り入れている謎につながっていくかもしれない。
Bが行った違法行為の数々
疑惑の「
工作員」Bの経歴をたどってきたが、このN病院を退職したあと、1994年4月には住民票を静岡県富士宮市のオウム本部に移動、
オウム真理教附属病院医師として活発な活動をはじめる。
Bが教団医療施設で行っていたのは、主として「イニシエーション」と「スパイ・チェック」だったと言われてい
る。
取材班はこの疑惑の人物Bに何度も接触を試みてきた。最近までBがいたと思われる
オウム真理教の施設や、Bの自宅にも足をのばした。両親を通じて、取材の申し入れもしてきた。だが、最近になって
オウム真理教を脱会したと伝えられるBの現在の足取りは、不思議なことに不明のままである。
しかし、私たちはその追跡取材の過程で、Bのことをよく知る元幹部信者に、話を聞くことができた。その証言の内容は衝撃的なものだった。「オウム独自の修行の方法として、ワークというのがありました。ワークの内容は『スパイ・チェック』と『ニュー・ナルコ』(記憶の消去、改変)、それに薬物や音声テープを用いた各種の『イニシェーション』の実施などです」−−「スパイ・チェック」と'いうのは、文字どおり教団内部に潜入したスパイを探し出す方法と考えていいのですか。
「そうです。スパイ・チエックをするときは、チオペンタールなどの麻酔剤を信者に投与して半覚醒状態にした上で、いろいろな質問をくり返します。『麻原のことをどう思っているか』『教祖のことを、好きか、嫌いか』『おまえは修行以外の目的で教団に入信してきたのではないのか』などのいくつもの質問をくり返して、信者がスパイであるかどうかを確認するものです。
教団はスパイの潜入を極端に恐れていました。なんでも、麻酔剤が作用している時に話しかけられると、人は嘘をつけないそうで、それを利用してのワークだということでした」
--「ニュー・ナルコ」というのは、どんなふうにやるのですか。
「ニュー・ナルコと呼ばれていたワークは、信者の記憶の消去や改変を行うためのものでした。
信者の脳に人為的に電気ショックを与えて、教団にとって不都合な記憶を信考の脳から消したり、変えてしまったりするのです。やり方は拷問にも似たもので、たとえば、『あのとき一私は殺害現場にいた』と、ある信者が言ったとすると、その患者にもう一度そのことを言わせて、すぐに電気ショックを与えるわけです。同じことを何度かくり返して、それでもその信者が同じことを言う場合には、与えるショックを次第に強いものに変えていきます。
脳は最終的には、それ自体の防衛本能から電気ショックを受けた個所の記憶を封印してしまうか、あるいは、次には電気ショックを受けないような発言内容に変えてしまうわけです」
−−そんなことを本当にオウムではやっていたのでしょうか。「本当でした」
−−イニシエーションとは?
「その頃に行われていたのは、LSDなどの薬物を使ったワークです。『修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ……』という、永遠にくり返される文句を録音したテープを、一日中独房のなかで聞かされつづける類のワークを指します。 同じ内容が表示されたパソコンのディスプレイを、一日中見せつづけるパターンのものもありました。つまり、視覚や聴覚に直接、訴えかけることで洗脳を完成させようというものです」
−−まさに、洗脳ですね。
「そうです」
ちなみにここに語られている「スパイ・チェック」は、あきらかに医師法違反だし、「ニュー・ナルコ」と呼ばれている記憶の消去は、脳に障害を与えることで傷害罪にもなる。LSDを使ったイニシエーションも、麻薬取締法違反に該当することは言うまでもない。
子どもをあやすときだけは別人
証言はさらにつづく。
「Bはそうしたことを医療行為として日常的に平然と行っていました。ときには、『自分だけは特別なんだ』と言わんばかりの傲慢さを見せながら行っていたのです。 口数は少なく、無表情のままに、淡々と機械的にやっていました。 細身でひょろっとした感じのBが、まったく笑いもせずに怒りもせず、感情を表に出さない表情のままで、一心にワークを行なっている姿は、いま思い出しても不気味そのものでした。
Bは林郁夫の逮捕後、1997年に長野県・木曽福島のアジトが設営されると、そこに移って今年の4月まで同じようなことをやっていたと聞いています。いまの教団ではBだけが医師としての有資格者で、医療部の実質的責任者をつとめていたようですから。薬物によるイニシエーションも引き続いてやっていたのではないでしょうか」 この元信考の話を聞いているだけで、何度か、身体に震えがきた。冷静にありのままの事実を聞こうと思っていても、頭のなかでは、つい、その情景を想像してしまうのだ。身も凍るような恐怖というのは、こういうことをいうのだろうか。話を聞いているうちに何度か鳥肌が立った。
そのBについて、しかし、この元信者は意外なBの側面も証言してくれた。「彼は家族にだけは優しく、妻や子どもは大切にしていました。Bは特別待遇でしたから、医療部の入っている第6サティアンに個室が与えられており、そこに家族そろって住んでいたからです。信者には腹が立つことがあると、『死んでしまえ』『お前なんか生きている資格はない!』『人間じゃない!』などと、ねちねちいじめ続けて、独房修行を平然と強要するような人間でしたが、自分の予どもをあやす姿は人が違ったようで、意外な感じがしてびっくりしたこともありました。 こうしたイニシエーションなどを指揮指導していたのは、Bと法皇官房の実質的トップだったIでした。現場には彼も必ず列席して、不測の事態に備えるという感じだったのだと思います。こうしたI−B−林郁夫のラインは、教団武装化をめざしていた早川−村井のラインとは別に、やはり教団内部の『宗教』とは無関係な、不透明な部分のひとつだったと思っています」
最近までBのいた長野県・木曽福島町のオウムの医療施設は、元旅館を教団が購入して改造したものである。木曽駒高原に隣接する別荘地の一角で、あたりは豊かな木々に囲まれている。
建物の外観は和風の作り力紬繍洪だが、鉄筋3階建て、総床面積約360平方メートル、敷地面積1370平方メートル。
昨年の夏に地元住民による立ち退き訴訟が提訴され、住民による
オウム真理教対策協議会ができている。
N病院の2年間で変貌したB
さて、いくつかのなぞが残る。
Bは、それまでの内科担当の医師から、どのようにして心理療法や催眠療法の技術を習得して信者の「イニシエーション」や「スパイ・チェック」を行うこ