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ジークンドー創始に関する初考
1964年、ウォン・ジャックマンとの対決において、師祖は自己の肉体と戦闘方法に様々な要素と要因が欠けていることを悟りました。今まで表現してきた詠春拳を含めた中国伝統武術が彼の求めた現実の戦いにおいて効果的ではないことに疑問を抱き始めます。しかし、この戦いにおいて評判や名声が高まっていたので、オークランドのスクールでは、依然として詠春拳をベースとしたジュンファン・グンフーを教えていました。
この戦いが後にジークンドーを開発・創始していくきっかけとなったことは、今現在では有名な話となっています。師祖は他の様々な武術/格闘技のリサーチを開始し、今までのジュンファン・グンフーに取り入れ、さらに改良していきます。きわめて多数の格闘システムに関する本を読み、そこから何が得られるのかをリサーチしたのですが、師祖が読み、リサーチした数々の本の大部分は、フェンシングとボクシングに関するものでした。それらの本には師祖自らが書き記した多量のアンダーラインや注釈が見られますが、それらは師祖が求める一番重要なテーマであり、当時の師祖のグンフーに最も強く影響を与えたものだったのです。
1965年に師祖は一通の手紙を弟子のジェームズ・リーに渡しています。
『僕はグンフー・システムの計画を立てている。そのシステムとは主に詠春拳、フェンシングそしてボクシングの統合によるものである。』
こうしてジークンドー創始への第一歩がこの時より始まったのです。しかし、当然ジークンドーという新しいスタイルとしての構想はこの時点ではまだありませんでした。
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| Wing Chun Kune | Fencing | Boxing | ||
他流儀のリサーチに関する考察
師祖がジュンファン・グンフーを改良、進化させる際、そしてジークンドーを開発、創始する際に、古今東西の武術/格闘技をリサーチしていたことは事実として知られています。
そのリサーチの大部分は、書籍からによるものでしたが、いくつかの流儀に関しては、実際の交流から行われたようで、師祖はこのリサーチに関して非常にストイックに熱意をもって研究に没頭したそうです。
今まで世間一般に伝わってきたことでは、『ブルース・リーが創始したジークンドーとは、古今東西の様々な武術/格闘技を研究し、各種の技術の長所を取り入れ、それらを組み合わせたものである。』という内容のものが非常に長い期間、世界中で信じられ続けてきました。つまり、師祖は他流儀をリサーチした際、おのおのの技術の長所を抜き取り、状況によってそれらを組み合わせて実戦に応用していた、ということになります。
しかし、当時の歴史の真実を紐解いていくと、上記の説明が曲解された、つまり誤った解釈であることが数年ほど前より明確になってきました。
師祖は、流儀(特に伝統派)の形式的な概念が人々を分断しており、その教義が人々の自由への解放を束縛していると説きました。また、形式的な教義による戦い方では、常に変化してやまない状況の中では、決して適応していくこともできはしないと信じていました。
そのため他流儀をリサーチする際に、基盤となる考察をたてたのです。
| 『人間の五体・身体の体重・技術と戦略・物理法則・哲学的原理/原則、それらをたえず変化してやまない実戦の中で、最も効果的かつ効率的に使用(応用)できるようにするには、何をどのようにすればよいのであろうか。』 |
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師祖は他流儀をリサーチする上でこの考察を基盤とし、各技術を実際にパフォーマンスし、その技術の裏に隠れている原理を解明したのです。様々な流儀の打撃技術、組み/関節技術などは上記の考察によってふるいにかけられ、一致に値しないものは即、除かれることとなりました。
フェンシングとボクシングに関する考察
師祖は、己の武術に足りない要素と要因を修得するため、様々な種類の流儀に関する書物を徹底的にリサーチした訳ですが、それらの書物の大部分はフェンシングとボクシングに関するものでした。
フェンシングに関しては、アルド・ナディ、ジュリオ・マーティンツ・キャステロ、フーゴ・キャステロ、ジェイムズ・キャステロ、ロジャー・クロスニールなどの書物を読み、特にアルド・ナディから強く影響を受けました。
ボクシングに関しては、ジム・ドゥリスコル、ジャック・デンプシー、エドウィン・ヘイスレットなどの書物を読み、特にジム・ドゥリスコルおよびジャック・デンプシーから強く影響を受けました。
以下に示すものは、師祖がフェンシングとボクシングの特殊な要素・要因を研究/実験した結果、インスピレーションを得てジークンドーのものとした項目です。これらのディテールは非常に精密に正確に表現されなくてはならないのです。
| 1).フェンシング→ジークンドー ・ジークンドー・バイジョン・スタンス(オンガード・ポジション)<攻防が融合した構え> ・フットワーク<高機動能力、角度変更、リズム変換(チェンジ・ビート、ブロークン・リズム)> ・間合いの調整方法<間合いの詰め方や離し方の自在性・・・空間のアジャストメント> ・ハンド・ビフォアー・フット<打撃の破壊力増加、自重のピンポイント移動とその加重方法> ・ターゲット・ライン<ガン・サイトの原理>※最短の距離を形成するエコノミー・ライン ・主な戦略法<SDA,SAA,PIA,ABDなど> ・インターセプション ※“ストップ・スラスト”→“ストップ・ヒット”の定義から“ジークンドー”の名が誕生する。 2).ボクシング→ジークンドー ・人体工学と連鎖運動力学<五体の効果的かつ効率的な運用方法> ・最高出力の出し方<打撃のスピードと破壊力の関係および内外のエネルギー感覚> ・パワー・ライン<ストレート系パンチのエネルギー経路・・・貫通と破壊力に影響> ・バーティカル・フィスト<ストレート・リード・・・ジークンドーのコア(核)となる最重要技法> ・スリーナックルの使用(中指・薬指・小指側の3点・・・パワー・ラインに関係) ・正しい整列性<物理学、力学、人間工学の応用> ・プッシュ・オフ(トリガー・ステップ)<全自重の瞬間移動・・・攻防両方法に応用> ・肩と腰の旋回<旋回と螺旋によるエネルギーの使用と応用およびヒンジとテコの原理> |
ジークンドーの創始に最も強く影響を与えたフェンシングとボクシングですが、大変重要な点を述べておかなければなりません。それは、ジークンドーはフェンシングでもないし、ボクシングでもありません。また、両方の技法の混合でもないということです。加えてジークンドーに武器術はありません。
つまり、師祖は、両方の科学的分析をし、改変・改良し、常に変化してやまない状況での現実の戦いに適応するよう実験を繰り返し、特殊かつ独自の技法で構成された新しいスタイルを創始しようとしていたのです。
フェンシングもボクシングもジークンドーを開発していく際、新たなインスピレーションを得るための最高の材料となったということです。
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影 響 インスピレーション |
![]() 截拳道 Jeet Kune Do |
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| Fencing | Boxing | J.K.D |
ジークンドー創始に関する考察とその伝承
1965年に新しいグンフー・システム開発の計画を練り、1966年、グリーン・ホーネットの撮影のためロスアンゼルスに移住。1967年2月、L.Aのチャイナタウンに第3のジュンファン・グンフー・インスティテュートを開校しました。この間師祖の研究は進んでいきましたが、本格的に様々なことを実践し始めたのは、グリーン・ホーネットの全撮影が終わった後でした。
L.Aチャイナタウン校で教えられていたのは、シアトル校とオークランド校で教えたものにボクシングとフェンシングや他流の考察が混じったもので、ジュンファン・グンフー後期形態です。テッド・ウォン師父が開校日で見た師祖のデモは、ボクシング的な要素が強かったと語っておられることから、師祖のグンフー・システムの開発は結構進歩していたことになります。
ただし、これはあくまでジュンファン・グンフーとしての進化であって、この時点ではまだジークンドーとして創始されていたわけではありません。
師祖は1967年夏頃までに自分自身が開発していく武術に、一つの定義を設けました。その定義とは、フェンシングの理論から影響を受けたものであり、“相手の心や身体の動きをさえぎること”というものです。アイデアとして『対戦相手を最も傷つきやすい状態にさせた中で、打撃をもってさえぎる。』ということで、この方法論を英訳すると“The Way Of The Intercepting Fist”となり、広東語で“Jeet Kune Do(截拳道)”と名づけられました。ブルース・リー財団の発表によりますと、Jeet Kune Doという英名を表し、使いだしたのが1967年7月とのことです。ただし、截拳道という漢字を初めて創案したのは1967年1月であったそうです。
師祖はフェンシングのアイデアの中でも特に、Straight Thrustを重要視し、これを“Stop Hit”としてインターセプト理論に応用、実践していきました。1967年、ロングビーチで開催されたカラテ・トーナメントにおける師祖のデモ(スパーリング)を見てもわかるとおり、リード側のストレート・パンチとフック・キックを多用しています。実は、この二つの技法は、ジークンドーにとって非常に重要な技法で、師祖が相手をインターセプションする際、最も多用した技法なのです。
『フェンサーの剣がいつも一列に整列しているように、リード側のジャブは対戦相手に一定の脅しを与える。基本的にそれは剣を使わない西洋剣のフェンシングで、主要なターゲットは相手の目である。』
ゆえにこれをジークンドーのコア(核)とする技法としたわけですが、テッド・ウォン師父をワークアウト・パートナー兼スパーリング・パートナーとして抜擢し、様々なトレーニング方法を開発しながら実戦に効果的となるよう繰り返し繰り返し実験を行い続け、ジークンドーは師祖が目指す形態へと進化していきました。
テッド・ウォン師父の話では、スクールで教えていたこととプライベートで開発していたものは、違うものであったそうです。つまり、スクールで教えていたものはあくまでジュンファン・グンフーであり、プライベートでテッド・ウォン師父が実験台となり開発されていき、その時教えられたものがジークンドーなのです。しかし、この時でさえもジークンドーは開発途上にあったので、非常に少数の弟子にのみ教伝されたそうです。また、以下に示すジークンドーを教えるための条件を、アシスタント・インストラクターも含めてすべての生徒に出していました。
| 1.ジークンドーの教伝はプライベート・レッスンであること。(1対1の教伝でなければ修得は困難となるため。) 2.他流儀のトレーニングと同時進行していないこと。(ジークンドー以外の流儀を同時にやると、修得が困難となるため。) 3.教伝された内容を他流儀に流さないこと。また、教伝された内容に他流儀の内容を組み合わせないこと。 (師祖自身が開発・創始し、教伝したものの純粋性を保護するため。) |
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ジュンファン・グンフーとジークンドーは初期の創案・開発において、そのベース(基盤と構造)となるものが別のものから創られているため、当然表現方法が異なってきます。ゆえに師祖はジークンドーの開発をしながら同時に、その修得の難しさにも気づきました。また、スクールの生徒で師祖から習ったことを他流(ケンポー・カラテ)と混ぜようとしたり、他流に教えた事件などもあったので、上記の条件を出したのです。この時、師祖は他流もやる生徒に対し、次のように語っていたそうです。
『僕から習うことだけで十分なのに、なぜ彼らは他の流派までも学びたがるのだろうか。』
こうしてリサーチしていくと、基礎構造や基本の初期段階を習えた生徒は若干おりますが、それ以上を学ぶことができたのは、生徒の中で一番師祖と時間を共にしたテッド・ウォン師父だけだったのです。
この事実は、師祖が常に記していたスケジュール帳から確認することができます。それと、テッド・ウォン師父の動きが師祖のものと非常に酷似しているという点と、教える内容や動きが他の師父たちのものと比較すると、違いがありすぎるという点から、ジークンドーとジュンファン・グンフーの表現方法に異なりがあることが判明します。
1969年になると師祖は、あまりスクールでの教伝に意欲をなくしてしまうようになり、教えに行く回数も減っていきました。つまり、詠春拳を母体としたジュンファン・グンフーを教えることに意欲をなくし、ジークンドーの更なる進化と非常に少数の弟子にのみ教伝していくことを望んだからなのです。テッド・ウォン師父によりますと、師祖は自分自身の進化のためには常に熱意を持ち続けた人であったが、教えるということに関しては、あまり熱意を持った人ではなかったと語っています。
この年、師祖は詠春拳の兄弟子であったウィリアム・チョン(張 卓慶)に手紙を送っています。
| 『ウィリアム、僕はいまだに自分を中国人とよんでいるけど、中国伝統武術への信頼を失ってしまった。なぜなら基本的にすべての流派は陸の上の水泳みたいなものだからだ。たとえ詠春拳であっても。 だから僕が行っているトレーニングの傾向は、ヘッドギア・グローブ・胸当て・膝とすね当てなどを装着して、ストリート・ファイト(実戦)でより効果を発揮させる方向性を持ったものなんだ。 5年が過ぎた今、(打撃を)空振りしてしまうことになるトレーニングに浪費されてしまうのではなく、(実戦で効果的に勝利するという)目的のために最高にハードなトレーニングをやり続けてきたんだ。』 |
そしてついに1970年1月、3ヶ所すべてのジュンファン・グンフー・インスティテュートを閉鎖してしまい、グループによるレッスンは2度と行うことはありませんでした。以後、師祖に選ばれた非常に少ない生徒のみへ、プライベート・レッスンによるジークンドーのみの教伝がなされたのです。
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| Wing Chun Kune | J.F.G.F | J.K.D | ||
ブルース・リー ズ ジークンドー最終形態への進化