関西学院大学体育会ヨット部 海徳敬次郎

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以下は、国保ひょうご7月号2003 に載った記事です

兵庫スポーツ人物像 No.14

海徳(かいとく) 敬次郎(けいじろう)

-ヨットに魅せられて-

力武敏昌 


 

1952年の第15回ヘルシンキ五輪ヨット競技に出場した海徳敬次郎氏
当時の日本では考えられないほど、たくさんの艇が浮かぶハーバー風景 (ヘルシンキ五輪で妻最影)

フィン級で活躍した海徳氏 (ヘルシンキ五輪で撮影)



 日本が第2次世界大戦後、初めて参加した1952(昭和27)年の第15回ヘルシンキ五輪。ヨット競技のたった1枚の代表切符を射止めたのは、関学大を出たばかりの海徳敬次郎だった。結果は28艇中の27位。悔いが残った。

以後、海徳は67歳の若さで亡くなるまで、五輪での体験を生かし、日本ヨット界の発展に尽くした。自らの現役時代、指導者の立場になってからも「ほかの者が遊んでいる間に勉強し、猛練習しろ」の姿勢は崩さなかった。


目を見張ることばかりのヘルシンキ五輪
 デンマークの国歌が流れ、同国の国旗がセンターポールに上がっていく。2位・英国、3位・スウェーデンの旗も…。「日の丸は…。君が代は…」。海徳は悔し涙にくれた。1948年ロンドン五輪でも勝っているデンマークのエルブストロームは”ヨット界の神様“といわれ、卓越した技量の持ち主。他の国々の代表も30歳代後半から40歳代がほとんどで、15年か16年のキャリアを積んでいた。

 海徳にとって冷たく、苦いものとなった北欧の夏。海徳は反省の第一に「体重(55kg)不足」を上げたが、プレーイングマネージャーとして同行した小沢吉太郎監督は「君は全力を出し切った。雨と風の天候不順の中、君のように体の軽い者を出さなければならなかった(日本ヨット)協会と僕の責任だ」と慰めた。

 最大の原因は情報不足だった。海徳が出場したのは、1人乗りフィン級だ。ヘルシンキ五輪のころ、日本にはフィンは1艇もなかった。仕方なく国内12次予選はフィンに似た艇が使用された。そのうえ、日本の艇は時代遅れのものばかり。海徳はヘルシンキで艇を目の前にして驚いた。「日本では見たこともないセンターボードがアルミ製だった」。艇はいずれもスウェーデン製で、全体の重さが非常に軽い。日本のフィンに似たヨットと比較して、3分の2ほどの軽量だ。スピードも違った。海徳が初めて試走した時「日本のディンギーの5割ぐらいの速さ」を感じた。

 もともとオランダなどの諸伝統国に比べ、日本のヨットは「およそ1世紀の遅れ」と言われていたが、こうも彼我の差があるとは…。海徳の驚きはヘルシンキ近くの機上で始まった。眼下に広がる紺ペきの海。目を凝らすと、大小さまざまな白帆の群れがハーバーを埋めつくしている。フィンランドの首都とはいえ、ヘルシンキは人口40万の小都市。にもかかわらず数艇の西宮ハーバーと比べものにならない。「北欧はシーズンが短いのに、このヨット熱」を痛感した。

 レースが始まって艇の研究が全くなされていなかったハンデに加え、北欧の天候も不運となった。日本での調査では「それほど風は吹かない」とされたが、雨が降った後、天候は不順。しかも雨は強い風を伴った。

 終わってみると反省することばかり。当時は五輪出場といっても選手への援助はほとんどなく、旅費などの費用は父が貸家にしていた家を2軒売るなどして工面した。しかし、単身で桧舞台の経験をした海徳は大きな”財産“を得た。


妥協許さぬ厳格な現役・監督時代

 海徳は西宮市内の網元の生まれ。実家の前の浜には各大学ヨット部の艇が浮かぶ。西宮浜で産湯を浴び、物心がついたころからヨットが身近な存在だった海徳にとって“ヨットの申し子”としての環境が整っていた。関学大時代(194851/昭和2326年)は全日本学生選手権で3回(19485051年)優勝と日の出の勢い。主将も務めた。

 ヘルシンキ五輪の代表に決まったのは、新三菱重工業(現・三菱重工)神戸造船所へ就職した年。その後、1963 (昭和38)年まで母校ヨット部の監督を務め、学生選手権で4回の日本制覇に導いている。現役のころから自らの練習、また指導で一切の妥協は許さず、“厳格”そのものだった、口数も少なかった。

 “厳格”を物語るエピソードをヨット部の後輩・花崎賢吾(神戸市在住・1958/昭和33年卒)は、こう話す。関学高等部から大学の7年間、海徳の指導を受けた花崎。「叱られてばかりの毎日。怖い先輩だったから、言われたことに『ハイ』と答えるだけ。叱られる言葉以外で耳にしたのは『おはよう』と『昼メシ食え』。それに(練習が終わって)『帰れ』の三つの単語に限られていた」と述懐する。

 海徳が指導で口うるさく言い聞かせたのは「前(トップ)を走れ!後を追うと事故(他艇との接触など)が起こる」。が、社会人になってからはヨット(指導)を離れると「これが厳格な…」を思わせるほど、海の男らしい豪快さと、おおらかな一面を見せた。企業人としての要職にあって、酒の量も増えた。気っ風のいい飲み方だった、という。

 この海徳に食道がんが−。1996(平成8)年12月に見つかり、治療の末、いったんは好転したが、翌年1010日に帰らぬ人となった。奇くも旧体育の日。現役時代の口癖となっていた『おはよう。昼メシ食え。帰れ』が弔辞に織り込まれた。草稿に案を出したのは花崎だ。関学大ヨット部OBの間では(弔辞の)“傑作”として語り草となっている。


レーサーたるよりもシーマンたれ

 「いかなる闘いにもたじろぐな。ただし、偶然の利益はいかなるものでも騎士的にいさぎよく棄てよ/最強の相手を求め、彼を汝の友とせよ/威張らず、誇りをもって勝て/言いわけをせず、品位をもって負けよ/勝利よりたいせつなのは、この態度なのだ」

 「汝を打ち破った者に最初の幸福を/汝が打ち負かした者に最初の感激を与えよ/汝自身と汝のチームに対し、願うべきはただ一つ・常に最善の者が勝つことを/汝の身体を、精神を、そして心構えを常に清潔に保て/汝自身の、汝のクラブの、そして汝の国の名誉をけがすなかれ」(原文のまま)

 関学大ヨット部の艇庫(部室)に掲げられている座右の銘である。墨こん鮮やかに書かれた部訓は、海徳が五輪遠征中に手に入れたドイツのスポーツ哲学者、カール・ダイムの著書の一部だ。目にした海徳は感銘を受け、自分で和訳した。海徳はヘルシンキヘ到着した後、市内でフィンランド語−英語、英語−フィンランド語の辞書を買い求めている。いかにも「勉強しろ、猛練習しろ」を説いた海徳らしい。

 海徳は“五輪みやげ”として、伝統ある関学大ヨット部に大いなる遺産を残した。

 遺骨は大阪湾に散骨された。関学大ヨット部(OB会)は遺族から贈られた遺産の一部を生かし、海徳が願っていた「後輩の育成とヨット界のレベルアップ」を目的に、1998年以降『海徳メモリアル・ヨットレース』を新西宮ヨットハーバーで開いている。例年、海徳の業績と徳を慕い、多くの艇がハーバーを埋める。全国的な規模で繰り広げられる同レースは、海徳の七回忌に当たる今年、6回目を数え、92728日に行われる。

 「いいスポーツをした。心の許せる友人が多くできた」。海徳が愛妻・道子夫人に残した最後の言葉という。

力武敏昌(りきたけ・としまさ)

1933年大阪市生まれ。幼少年期を中国東北部(旧満州)で過ごす。関西大学卒。神戸新聞社入社後、運動部で陸上競技、テニス、アメリカンフットボールなどを担当。1964年東京、72年ミュンヘン五輪を取材。退社後フリー。