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| 唐突ではあるが、うちの子供たちはとても可愛い。自分の子供だからというのではなく、控え目に見たとしても、よそ様の子供よりも絶対に可愛いと、私は思っている。 こういうのを世間では「親ばか」と言うのだと思うが、私は「親ばか」ブラボー!「親ばか」大賛成!である。 親が、自分の子供を可愛いと思うのは自然の摂理(?)なのだろう。そうでなければ、こんなに手間がかかり、人の話を聞かない、泣き虫でわがままな未成熟な人間と一緒に生活するのは難行苦行でしかなく、それをする親というのは物好きだということができる。 確かに、子供を育てる過程で逆に子供から教わるということはたくさんあるから、これが一種の修行であると言えなくもない。 しかし、子育ての何よりの収穫は、子供の成長を見ることなのだから、子育ては大変というより、子育ては楽しい!と私は声を大にして主張したいのだ。 子供の成長は、私たちの想像以上のもので、大人である私たちから見れば、本当に別の生き物のようでもある。 大人はもうこの年になれば、1年や2年で性格が変わったり、人間的に成長したりするようなことはなくなってくるが、子供はたった数日のうちで「あっ」と驚くほど成長したりするのだ。 我が家では、ちょうど上の女の子が年長さんになったところで、このところ体格的な成長よりも精神的な成長というのが著しい。 今までは子供らしい身勝手さばかりが目に付いていた子供が、大人の都合や周囲の環境にまで目を向けるようになり、妙に大人びた言葉を口にしたりすることが多くなった。 また、最近では「死」というものを認識しはじめたようで、親が子供より早く死んでしまうのだということなどを、私に対して教えてくれたりするのだ。そして子供がそのことを否定的に受け止めるのではなく、「そういうものなんだ」と自然に受け止めていることが親にとっては驚きだったりする。 そして子供が、将来訪れる親の「死」を自然に受け止めているということは、親の私たちにも、いつかやってくる子供との「別れ」という現実を突きつける。 こうやって、子供が幼児から少年・少女へと成長していく過程では、私たち親も色々考えさせられたりするものなのだ。 ときに、もう夏がすぐそこまでやってきて、子供たちが太陽の下で元気に遊ぶ季節になったが、毎年この時期に決まって繰り返される「悲劇」がある。 この季節は、「熱射病で幼児死亡。車に放置し死なす」「エアコン止まり、親はパチンコで気づかず」などの見出しが新聞の社会面に載るような季節でもある。 「親ばか」に対して、こういう親は「バカ親」と呼ぶべきか。 おそらく、子供をこういう風に死なせる親たちというのは、子育てに対する考え方が私たちとは異なるのだろう。子供は、親が保護監督しなければいけないという最も基本的なことが分かっていないからこういうことになるのだ。 生物学的には、生殖を行えばどんな阿呆であろうと簡単に「親」になることはできるが、子供に対しての責任を自覚してこそ本当の「親」なのだ。 しかし、いつの頃からか子供を育てることの「重さ」が分からない人間が「親」の顔をしだすようになったように思う。まるで「子供が子供を育てている」かのようだ。 「マニュアル社会」と言われるようになり、核家族化で子育ての見本が身近にない現在では、こういう「親子」が出現してしまったのも必然なのかもしれない。 しかし、野生動物は誰にも子育てを教わらなくてもちゃんと子どもを育てている。人間社会と動物のそれとは複雑さが違うと反論されるかも知れないが、賢い人間の方が子育てが下手なのはどうしてだろうか。 私は結局、それらの子育ての問題は、子どもへの関心の度合いによってくるものだと考えるようになった。扶養者として、保護者として、一人の人間として子どもへの関心を持つこと。それが何より子育ての基本だと思うのだ。子どもに接する時間よりも接していない時間の方が圧倒的に多い現代では、限られた時間の中で子どもへの接し方の”質”を上げること。これらが重要だと思うのだ。 この項では、父親の育児参加をメインテーマに、経験をもとにしたクロオ的「子育て論」をご紹介したいと思う。 2000年6月18日,初稿 2002年2月4日,加筆修正 |