ロケや、レッスンの移動中、車や電車のまどから流れる風景に目をやると、街はバレンタインムードで溢れかえっていた。
その光景は、私にはとても遠く、別の世界の様に感じられる。
去年までの学校に通っていた頃は、渡す相手が居ないまでも周囲の話題に乗って『バレンタインが近づいてきたんだな……』と実感する事ができたのだけど、アイドルとして活動する様になって
毎日が目まぐるしく過ぎていくと、時間が経つのをついつい忘れてしまう。
……浦島太郎が竜宮城から帰って来た時も、こんな気分だったのだろうか?
不意に、そんな事を思った。
「律子、どうした?」
ボーっと外を眺めていた私を、プロデューサーが現実へと引き戻す。
そう、今の私の現実はアイドルとしての生活。
だから、窓の外の世界は 私にはまぶしい夢のような世界。
でも、それは窓の外の人々からしても同じ事。
向こうの世界から見れば、私たちの住む世界はまぶしい夢のような世界。
同じ日本と云う国に住んでいるのに、こんな薄い窓一枚を隔ててここまで違うものなのかと……。
「いえ、何でもないです」
私は、深呼吸を一つして、気持ちを切り替える。
そう、私は人々に夢を与える存在になったんだ。
この世界は、いつ忘れられてしまうか判らない、先の見えない世界なんだから、今できる事をやらなくちゃ!
「そう、考えていたのよね……」
そう、確かに収録が終わるまではそう考えていた。
でも、違っていた。
共演者の女の子たちは、収録が終わると男のスタッフさんたちにチョコレートを配りまわっていた。
そこで私は、思い違いをしている事に気付いた。
住む世界は違ったとしても、住んでいる国は同じだと云う事に……。
男の人たちは、義理チョコだと判っていても嬉しそうに受け取っていたし、渡す側の女の子たちも、嬉しそうだった。
……私は、何も用意をしていない。
勝手に住む世界が違うと思い込み、バレンタインデーと云うイベントの事を軽く見ていた。
そうだ、言ってしまえばお祭りなんだから、住む世界なんて関係ない。
だけど、私は渡すためのチョコレートを持ち合わせていない。
「ほら、律子」
そう、思っていた私の前にプロデューサーから差し出された紙袋。
「どうせ、用意なんてしてなかったんだろ? 俺の方で用意しておいた」
その中には、袋いっぱいのチョコレートが入っていた。
「プロデューサー?」
「これから先も、一緒に仕事をする人たちなんだから、こう云ったイベントの時は感謝を表す為にも、ちゃんと準備をしておけよ」
ごもっともな意見だった。
「で、それで私はチョコを作っている訳よね?」
現場でチョコを配り終え、そのまま帰宅した私は、春香に電話で簡単なチョコの作り方を訊いていた。
春香に、冷やかされながらも、生チョコのレシピをメールで送ってもらい、目の前にある黒い液体がまさにその現物である。
「とは言え、コレをどうやってプロデューサーに渡せば良いのかしら?」
思えば、手作りのチョコレートを人にあげた事なんてない。
事務所で渡すとなると、周囲の目がある。
移動中に車内で渡すとなると、プロデューサーに勘違いされるかも知れない。
何より、手作りと云う時点で勘違いされる可能性があるのだ。
……そうだ、手作りと云う事で本命チョコだと勘違いされる可能性の事を全く考えていなかった。
別に、プロデューサーの事がキライな訳ではない。
でも、それが恋愛感情へ移るかと訊かれるとそうでは無いと思う。
少なくとも今は、プロデューサーとは仕事を通じての関係でしかないと思っているし、仕事を通じての関係だけで居たいと思っている。
まだ、出会って日も浅いし口論になる事もよくある。
でも、プロデューサーの言っている事は、私の将来にとって糧になる事も多いし、何より自分の手本として近くで見ることのできる数少ない存在でもある。
だから、そこに恋愛感情を持ち込んでしまうと、今の関係が少しづつ変わって行ってしまうかも知れない。
「……事務所の皆に配りますか」
私は、少し固まってとろみが付いてきたチョコレートを再び火にかけ、ゆっくりと溶かしていく。
このチョコレートの材料みたいに、私とプロデューサーもいつかは混ざり合うかも知れない。
その時は、胸を張ってプロデューサーだけに渡せる様になろう。
だからその時までは……。