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講演のタイトルは “LOVE YOUR CITY OF DIFFABLE”です。私はそう言われてS
MS(日本のEmailのようなもの)で講演の依頼を受けました。
私はVISAの取得のためマレーシアに10日ほど滞在していました。私がマレーシアにいる丁
度良いチャンスということで、6月1日にマレーシアのクアラルンプールの中国系の新聞社(星 州日報)で日本の状況を話していただけないかと頼まれたのです。
「私は英語もマレイ語も出来ないがそれでもいいのですか?」と尋ねると当日は日本語
通訳を付けるので心配しなくていいとのことでしたので引き受けることにしました。当日は新聞 社のなかなか広い一室で礼堂と呼ばれている所でした。100名くらい入れそうなところ(その日 は50名ほどだった)で、ACがききすぎていて少し寒いくらいの部屋でした。メインの講演にこ のキリスト系の福祉界の中では有名であるらしい、黄恩徳さんという方がお話され、その後私 が話をするという形になりました。黄さんの持ち時間は1時間、私の持ち時間は30分でした。
パンフレットにMr.Chikara Sakamoto(知加良先生)と記されていて、なんだか気が引ける
思いでした。
マレーシアでは人がステージに登場するときにテンポの良い軽快な音楽が素晴らしいタイミン
グでかかるのが常識となっていました。また、1分間隣前後の見知らぬ人達と握手をして回 る、というマレーシアのキリスト系の方が良くやる挨拶形式がありました。これは世界のみんな が平和に暮らすため、まずは今出会った人と仲良くなりましょうということでしたが、私には少し 抵抗がありました。なぜなら、宗教的な匂いがぷんぷんし、強制的に感じられたからです。きっ と宗教に関心が薄い日本人なら誰もが抵抗を感じるかも知れません。
しかし、私はインドネシアにいた経験から、時間が経てばこの形式も抵抗が無くなるだろうと
思いましたので、不快な顔などはせずに、なるべく自然に振る舞うことにしました。
世界の国々において宗教を持たないこと、この事の方が実は非常識的国であることを
私はインドネシアでの生活で知っていました。私は洗礼を受けた経験はありませんが、クリ スマスイブには家族で協会に行くことがありましたので、宗教は何ですかと聞かれたら必ずキリ スト教と答えるようになりました。
黄さんの講演が終わり、私の番となりました。まず司会者から私の紹介と経歴が話され、そ
れが終わったとたんに、テンポの良い軽快な音楽が流れたので、私がステージに上がらなけ ればならないこと理解し、ステージに緊張と笑顔の入り交じった顔でゆっくりと上がりました。
私はろう者が居ないのにもかかわらず日本語を話しながらなぜか手が勝手に動いてい
ることに話しながら気づきました。日本語も手話もわからない相手になぜか私は日本とアメ リカとインドネシアの入り交じった独特の手話を使いながら通訳を通してではなく、自分の表 現力でどれだけこの人達に自分の言葉を受け止めてもらえるかというのを本能的に表出 させていたように今は思います。あの感覚は本当に不思議だったことを覚えています。
ろう者にとっては手話が第一言語、話し言葉は第二言語であるため、相手が健聴者であって
も手話を必ず使って話すというのを高村真理子さん著書の「アメリカ手話留学記」で読んだこと を思い出しました。ということは私の第一言語は手話なのかも・・と後になって真剣に考えまし た。
私の思いがどれだけ傍聴者に伝わったかの心配でした。私はまじめな話だけだはつまらな
いと勝手に思い、原稿には入れていないですが講演の合間に冗談を何回か言ったのですが、 笑っている人が少なく、そのことで自分のセンスを疑っていたのです。
しかし質問の時間になると、1時間講演した黄さんにではなく、私に質問が殺到したのです。
私は張り切って椅子から立ち上がってステージの前の方に行ってまた手話を使い、日本のトイ レの状況、障碍者雇用制度、障碍者の職業的問題などを手短に話しました。話を聞いている 皆さん顔が、やけに崩れ、白い歯が見えていたので、その時の私はいつもより輝いていたので しょう。
また手話というよりはBody Language に近かったのではないかと思います。彼等が求めてい
たのは変な日本の冗談ではなく、日本の設備や障碍者の状況であったということが、その 時わかりました。それでも私の全身を使う手話に笑っている人もいましたが・・。
伝えたいという気持ちが伝わったという気持ちに変わり自分の気持ちが静かに興奮している
のがわかりました。
席に戻ると友人のAngelesさんが「You were very nice!!」と賞賛をしてくれ、更に嬉しくなりここ
に来て良かったと思いました。
この新聞社に来る前、偶然にも車の中の窓越しに日本レストラン“しあわせ”というのを目に
しました。今日は何か良いことがありそうと感じていたのが本当になりました。
次の日の朝6時30分、私は10日間お世話になった肢体不自由センターを後にしました。早
朝にもかかわらず4人の友人が駅まで見送りに来てくれました。分かれる少し前にAngeleさん がBook Markerをくれました。それは上にマレーシアの民族衣装を着た人形が付いており、
“MALAYSIA”とサインがはいっているものでした。もうしばらくは来れないであろうマレーシアに
最後の挨拶をし、特急エクスプレスに乗って飛行場に向かいました。
坂本 知加良
以下に講演の内容を乗せたいと思います。
初めまして。私の名前は坂本知加良と言います。私は英語もマレイ語も中国語も話せないの
で、今日は通訳を通して日本語で話したいと思います。
私は紹介に預かりましたように、日本の北海道の札幌という街から来ました。札幌には四季
があり、冬には雪の降る寒い街です。
丁度一年前の雪が溶けて春になる頃、私は地元の大学を卒業し、インドネシアの中部ジャワ
にあるジョグジャカルタという街の聾学校でボランティア教員として2ヶ月働きました。インドネシ アの子ども達の顔がどうしても忘れられず、8ヶ月日本で働きお金を貯め、今年の一月に再び インドネシアを訪れました。絵本や言葉カード、手話、PCなどを使って理解することを大切にし たコミュニケーション方法を教えています。いわゆるトータルコミュニケーション教育です。
マレーシアにはVISAの関係で二回訪れています。以前1週間マレーシアに滞在し、車椅
子の友人とKL(クアラルンプール)の街を歩いたときの感想を述べ、その後日本の東京の状 況を述べたいと思います。
私は以前KLを車椅子の友人とタクシーを使って訪れたときのことです。私はインドネシア
の子ども達にお土産を買うために、KLCCやチャイニーズタウンや大きなショッピングモールを 訪れました。
マレーシアの人は、電動車椅子が珍しいらしく、どこへ行っても必ず人々は私たちに注
意を向けて来ました。また店内が狭いことから邪魔がられたり、出入り口にスロープがな く、私が介助しながら段差を乗り越えたことを覚えています。街の一般道路は歩道が狭く、 電柱が邪魔をし車椅子が歩道を走ることは出来ません。私たちは仕方なく車道を走らなけ ればならず、車通りの多い車道をドキドキしながら走り、大変危険であったことを良く覚えてい ます。
(1)交通問題
KLでは交通機関が発達していないことから車椅子の人達は改造自家用車かタクシーが
必要不可欠となります。車椅子の方にとって自宅から駅までの交通手段は皆無です。
(2) 経済負担
タクシーでの移動の場合、経済的に見てかなりの出費をしなければなりません。タクシーを
呼んで自宅まで来てもらうのに上乗せ料金、車椅子を後ろのトランクに乗せるにも上乗せ料金 が取られるのです。友人は1ヶ月の給料はほとんどタクシー代になると言っていました。
(3)障碍理解
タクシーに乗るとき、お客が車椅子だとわかると、突然態度が悪くなったり、あからさまに
いやな顔をしてきます。怒りだして運転が荒くなることさえあるのです。私もその様な場面に二 回出くわしました。未だにその理由は分かりませんが。
ついさっきのことですが、2人の車椅子の方に教会に行くのでタクシーを拾って欲しいとのこと
で私はタクシーを呼ぶため道の端でタクシーを待ちました。空乗車にも関わらず一向に車椅 子だとわかると止まってくれませんでした。30分してやっと1台止ってくれましたが、後ろ のトランクが壊れてるからと言い訳をして行ってしましました。その後も何台ものタクシー が素通りし、約一時間後にやっと人のよさそうなおじさんが止ってくれ、無事に彼等は教 会へ行くことが出来ました。しかし、彼等が出ていったのが12時、帰ってきたのは夜の12時 です。人間は心理的生き物であり、社会的動物であります。KLで車椅子の方が唯一の交通手 段であるタクシーを使って行動することは、精神的にも、肉体的にも、経済的にも大変疲れるこ となのです。
「こんなことなら、家でじっとしてた方がいいでしょ?」と諦め半分に言った友達の言葉に、人
間として当然与えられる権利が与えられず、それによって人生の道が制限されているとしたら こてはとっても残念なことだと思います。
(1)交通問題 (2)経済負担 (3)障碍理解
以上のことを今後早急に改正していかなければならないと切々に思います。
これから東京の状況についてお話したいと思います。しかし、私は東京に住んだ経験もなけ
れば、バリアフリーの専門の勉強をしているわけでもありませんので、私の知っている範囲で お話したいと思います。
東京は交通機関が大変発達していますので、地下鉄やバス、電車といった交通機関で車椅
子の方が一人でたいていの場所は行くことが出来ます。駅員に声を掛ければ、行き先を聞い てくれ、行く予定の駅に前もって連絡を入れてくれ、車椅子が到着するのを待っていてくれま す。駅屋街中には段差が少なく、遠回りを強いられますがいけないところはほとんどありませ ん。各駅にはエレベーターが常備されています。また、「東京車椅子ガイドマップ」というのがあ り、車椅子の方が行くことができる設備や機関が示されたガイドマップがあります。車椅子の方 としては不安材料になるトイレ、食事、エレベーターの完備などの情報が前もって得られ、安心 して行動できます。また、全ての交通機関は障碍者料金が設定されています。交通機関が発 達していない地方都市ではタクシーチケットを配布しているところもあります。車椅子は行動障 碍です、バリアさえなければ普通に生活できるということなのです。
私の父は「しあわせになりたい」という本を著し、その中で、「どんな体になっても、
どんな生活をしていても、いつでも願いは一つ、しあわせになりたい」と書いています。
私の父は11歳のとき、病気の治療のために使った薬の副作用で両耳の聴力を失いました。
障碍や状況が違っても、誰でがしあわせになりたいという希望を持ってると思います。障碍が あるから、しあわせが半分で良いということは決してないのです。しあわせになるということ は、一度でもその人生において完全燃焼することかも知れません。そうだとしたら、障碍がある ことでそれができないことは、何と悲しいことでしょう。
KLが東京のように交通機関が発達し、車椅子の方が一人でどこへでも行けるようになって
欲しいという希望はあります。しかし、東京と同じになって欲しいとは思いません。日本にも多く の問題があります。マレーシアにはマレーシア独自の問題があると思います。お互いに良 いところを学び合い、日本もマレーシアも誰にとってもバリアのない良い街 作りを進めていって欲しいと思います。
一部の人のためではなく、誰に対してもやさしい街作りを!
これで私の話を終わらせていただきたいと思います。ご静聴ありがとうございました。
2003年6月1日 クアラルンプールにて
坂本 知加良(さかもと・ちから)
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