[エンジェル]
    藤懸久明(ふじかけ・ひさあき)著 平成7年1月16日 TBS全国放送

                        


 4階にある病室の窓からは、ガランとした街並みが見えています。広い病室の中に、ポツンと
置かれたベッドの上で、ゆきちゃんは窓枠にほおづえをつくと、大きな溜め息をついてみまし
た。

「ゆきちゃん、時間ですよ!」

 ドアの向こうで、看護婦さんが呼んでいます。

 ひとつきまえ、交通事故でお父さんとお母さんを亡くし、自分も左足に大きなけがをしたゆき
ちゃんは、毎日この時間になると、1階にある理学療法室でリハビリを受けているのでした。

「ゆきちゃんって、サックスが吹けるんですって? 隣りの病室のおじいさんが言っていた
わよ」

 おじいさんったら、また看護婦さんに余計なことを言って…。まだ私が少ししか吹けない
ことを知っていて、わざとそんなことを言うんだから…。

 ゆきちゃんは、そんなことを考えると、急にイライラしてきました。

「あたし、もうリハビリなんて行かない!! ねぇ、あたしの足は、もう治らないんでしょ
う!! いつまでたっても治らないんなら、もうリハビリなんて行かない!!」

「もちろん、急には良くはならないわ。一生懸命歩く練習をして、1日も早く学校へ行ける
ようにならなくっちゃ。学校のブラスバンドのみんなだって、ゆきちゃんのことを待ってい
るのよ」

「そんなこと無い。歩けなかったら、ブラスバンドには戻れない。みんなと一緒に、パレー
ドだって出来ないもの。出て行って! 出て行ってよ!!」

 誰もいなくなった病室は、いつもより、ますます広く感じました。いつしか、ゆきちゃんは眠って
いました。


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「ゆきちゃん、起きてごらんよ!」

 突然の声に、ゆきちゃんは目を覚ましました。見回すと、そこにはベッドも病室もなく、ゆきち
ゃんは真っ白な景色に包まれていました。そして目の前には、まっ白い服を着て、頭に金色の
ワッカを浮かび上がらせた男の子が立っていました。

「これは夢? 違う!! きっとあたしは死んじゃったんだ!! ここはきっと天国なん
だ!! だって、目の前にいるのは…!!」

「違うよ、ゆきちゃん。確かに僕は、天使だけど…。君は死んでなんかいないさ。そんなこ
とより、ほら、下を見てごらん」

 見下ろすと、そこには小さな街が広がっていました。ゆきちゃんは、この街をどこかで見たこ
とがあるような気もしましたが、よく見ると、あちこちの家はすっかりと焼けてしまっていて、まる
で教科書で見た戦争の後の焼け野原のように見えました。

「ほら、ゆきちゃん。あそこを見てごらん」

 天使が指差した先には、小さな1人の男の子が、一生懸命靴磨きをしていました。からだじゅ
う、泥と油にまみれながら、男の子は靴を磨き上げると、ほんのわずかなお金を受け取り、大
きな声で、「ありがとうございました」と、お礼を言いました。
 そして、手際良く荷物をまとめて歩き出すと、焼け跡の上に立っている、小さな家の中に入っ
て行きました。

「ただいま、お姉ちゃん」

「お帰り。ごめんね、お前にばかり苦労をかけて…。この足さえ、空襲でやられなけれ
ば…」

「いいんだよ、姉さん。姉さんは、足を良くすることだけを考えて。父さんと母さんがいな
いぶん、僕が頑張って大きな病院に行けるようにするからさ」

「ごめんね。あたしも頑張るから。『夢は必ず叶うもの。目標は持ち続けること。希望は捨
てないこと』」

「それ、姉さんの口癖だね」

 2人は、楽しそうに笑いました。

「どう?」

 天使がゆきちゃんに聞きました。

「あの2人、本当に一生懸命だね。あたしもこんなことで負けちゃいけないんだな。『夢は
必ず叶うもの。目標は持ち続けること。希望は捨てないこと』」

 ゆきちゃんが答えると、天使はにっこりと微笑みました。

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 気が付くと、ゆきちゃんはいつものベッドの上でした。まぶしい朝日が、窓の外から差し込ん
でいます。

「あたし、夢を見ていたのかな? でも、素敵な夢だった…。『夢は必ず叶うもの。目標は
持ち続けること。希望は捨てないこと』かぁ…。よし、あたしも一生懸命歩く練習をして、
絶対に学校に戻るんだ。そして、4月には新入生の前で、ドボルザークのユモレスクをき
っと演奏するんだ!!」

 ノックの音がして、隣りの病室のおじいさんが入ってきました。

「ゆきちゃん、今日は元気そうだね。おじいさんはね、元気なゆきちゃんを見ていると、お
じいさんのお姉さんを思い出すんだ。姉さんはね、戦争でゆきちゃんと同じように、足を
けがしたんだけど…」

「えっ? じゃあ、ひょっとしておじいさんは、あの靴磨きをしていた…」

「おや、どうして知っているんだい? そうだよ。その時に頑張ったおかげで、姉さんは今
でも元気に北海道で牧場をやっているんだよ。ゆきちゃんの足が良くなったら、ゆきちゃ
んも連れて行ってあげよう」

「うん、『夢は必ず叶うもの。目標は持ち続けること。希望は捨てないこと』でしょう!!」



終わり




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