ある聴覚障害者の人権救済申立
−聴覚障害児の家庭教師事業とフリースクールから見た、
                  北海道の聴覚障害児問題と、その展望−

藤懸久明(ふじかけ・ひさあき)著


1.はじめに

 「ろう学校で手話を使わせない人権侵害が行なわれている」として、聴覚障害児と親の計10
7人が、平成15年5月27日、手話による授業実現を求め、日本弁護士連合会に人権救済の
申し立てをした。その申し立ては、現在の多くの聾学校で、「手話禁止、口話教育一辺倒主義」
が採用されていることに対する訴えである。その人権救済の申立書によると、手話を認めない
学校教育の結果、聴覚障害児には、学習進度の遅れ、心身発達の阻害、過重な負担などが
発生する(1)。
 人権救済を求めざるを得ない窮状におかれながらも、様々な地域で、学校に頼らない教育
方法が、ボランティアなどの人々によって運営され、聴覚障害児とその親によって強く求められ
ている。
 この状況は、ろう教育の批判的な再検討を緊要なものとしている。
 かかる再検討のため、障害者問題に積極的に取り組んできた関西において、実態調査を行
なった。そのとき、ある関西の聴覚障害者は、ビルなどに祭られている「えびす」という七福神
の神を自慢げに、かつ誇らしげに紹介してくれた。その関西の聴覚障害者が、大変関心を持
っている神なのだそうだ。
 関西には、「ねや川戎神社」や「今宮戎神社」など、えびすを祭るたくさんの神社がある。関西
において、えびすは一般的に、「えべっさん」という愛称で呼ばれ、庶民に大変親しまれている。
「えべっさん」を参拝する際には、ドラを叩いて大きな音を出すという。そして、お札や縁起物の
購入の際には、大きな掛け声をかけたり、かなり威勢の良いかしわ手を打ったりなど、音にこ
だわる大変ユニークな信仰がある。こういった文化は、他の地域にはない、関西独自のの文
化と言っても良いだろう。
 なぜ、えびすの行事は音にこだわり、関西の聴覚障害者がえびすに誇りを持つのであろう
か。えびすのこの謎を解くことによって、先進的な聴覚障害児教育活動をしている関西の聴覚
障害者たちの実態と、この問題を解決するための鍵が見えてくるのかもしれない。


2.聴覚障害児の情報保障と学習支援

 聴覚障害学生が大学に在籍するとき、ノートテイクなどの方法で障害学生の講義支援を行う
ことができる。しかし、聴覚障害をもつ小・中・高校生の場合は、どうであろうか。
 日本には、聴覚障害学生のための特殊学校として、聾学校幼稚部、小学部、中学部、高等
部がある。聾学校の小学部と中学部には、90db以上の聴覚障害児が通うことが多い。
 通常、聴覚障害児教育は、60db以上の聴覚障害学生を対象として行なわれている。小学校
であれば、普通学校の中に難聴学級が存在するので、60dbから90dbの児童は、普通学校に
通いながら難聴学級で授業を受けるケースが多い。しかしながら、多くの地域の中学校の場合
は、難聴学級が存在しないので、普通学級に通う聴覚障害学生は、何の情報保障も得られな
いまま、授業に参加することになる。一方、聾学校高等部は、さながら「職業訓練校」のように
なっている。それゆえに、進学を希望する聴覚障害学生は、普通高校に通うのが一般的であ
る。この場合も中学校同様、聴覚障害学生は何の情報保障も得られないのである。
 大学の講義であれば、講義の空いている時間に健聴学生がノートテイカーとして入ることが
できるであろう。しかし、聴覚障害学生が普通校に通う場合、すべての学生について同じ時間
に授業を開始され、終了されるので、学生によるノートテイカーというものは期待できない。そこ
で重要になってくるのが、普通中学校や普通高校に通う聴覚障害学生のための講義保障であ
ろう。
 札幌には、聴覚障害学生のための家庭教師ボランティアというものがある。「家庭教師くら
い、いろんな家庭教師派遣会社でやっているので、意味がない」と感じる人も多いようである
が、聴覚障害学生や、そのご家族の声を聞くと、それとはまったく違うのである。
 一般的な家庭教師派遣会社が派遣をする家庭教師の場合、聴覚障害学生に対する理解が
ないがために、家庭教師が知らず知らずのうちに、聴覚障害学生に対して傷付くことや差別的
な発言をすることもあり得る。また、家庭教師にいくら熱意があったとしても、聴覚障害を知ら
ないために、うまく指導ができないこともありうる。しかも、家庭教師派遣会社の家庭教師を受
けるには、費用が大変高額であるため、通常の家庭の場合、なかなか手が出ないのが実情で
ある。
 それに対して、聴覚障害学生と接し慣れている大学のノートテイカーや、聴覚障害を持つ大
学生本人であれば、聴覚障害に対する理解もあり、どのようにしたら通じるかを経験している
ので、適切な指導が期待され得る。聴覚障害学生が困難な場面に遭遇した際は、ノートテイカ
ーの仲間や聴覚障害を持つ大学生と相談することで、解決に結びつくことも多い。
 聴覚障害学生には一般的に、耳から情報が入ってこないことに起因する情報の閉鎖が起こ
ってしまう。このことに関して、静岡県弁護士会の後藤正治弁護士は、次のように述べている
(2)。

  ……幼少の頃に聴覚障害が無くなっている場合には、……耳からの情報が得
  られないので、言葉の発音を知ることができないし、耳学問が全く途絶えて
  しまうのである。人は学習をしていく過程で、耳、目からの情報を得て、字
  の意味や発音を獲得していくが、耳からの情報が無くなってしまい、目だけ
  からの場合には、恐らく情報収集能力と学習能力は20パーセントくらいに
  低減してしまうと思えるのである。

 聴覚障害学生の場合、これらの傾向が英語と国語、そして数学の文章問題の思考力に大き
な影響を及ぼしてしまうことになる。しかも、こういった傾向は、
100dbを超え、全聾といわれる聴覚障害学生に限らない。たとえば、親や学校教員が「補聴器
をつければ聞こえる」と認識し、本人も声を使って無理なく自らの意思表明ができる難聴といわ
れる聴覚障害学生にも、この傾向は多く見受けられる。
 ここに重要なポイントがある。つまり、難聴といわれる聴覚障害学生は、「この子は聞こえて
いるから」という周囲の誤解から、障害児教育が遅れてしまうことがあるという点である。確か
に難聴学生は、言葉を明瞭に発語することができる。そして、FM補聴器などの高性能補聴器
で対応できる場合もある。
 しかしながら、難聴児の場合は、はっきり聞こえないがために、断片的に聞き取った情報を
今までの経験から、知っている言葉に結び付けて推測せざるをえないということがある。この方
法だと、新しい情報が入ってきにくくなる。
 このことを健聴者の場合に置き換えると、たとえば、健聴者が雑音混じりの遠い地域のラジ
オを聞くとき、「今、こういった内容の放送をしているのだな」と推測をすることができる。しか
し、そのラジオから放送される、今まで聞いたことのない外国の街の名前や人名などは、まっ
たく書きとることができないであろう。難聴児はつねに、こういった状況にさらされているのであ
る。
 一方、健聴者の大人が、なんらかの事情で失聴してしまった場合は、今までの知識や情報の
蓄積がある。しかしながら、生まれながらの難聴児は、今までの蓄積がない。成長する過程に
おいても、前述した後藤正治弁護士の指摘する「情報収集能力と学習能力は20パーセントく
らい」という壁が立ちはだかる(3)。それゆえ、健聴学生とは違った、聴覚障害学生専用の指導
プログラムが用意されなければならないのである。
 たとえば、国語問題においては、文章に出てくる大半の漢字に対し、家庭教師が事前に読み
がなと意味を書いたリストを作っておく必要がある。その漢字が簡単なものであったとしても、
家庭教師は読みがなと意味を事前に調べておかなければならない。なぜなら、発語された言
葉を認識できない、または聞き取りが完全でない聴覚障害学生にとって、言語習得は至難の
業であるからである。つまり、20パーセントしかない情報能力をいかに埋め合わせるかは、こ
のような事前準備に懸かってくるのである。
 しかし、読みがなと意味を書いたリストだけでは不充分な場合もある。なぜなら、そのリストに
もとづく説明を全くイメージできないこともあるからである。そういった場合に関しては、写真や
動画、実物を用意して、目で見る学習で強化することが必要である。
 また、国語の解説において、学校教員が熱心に黒板に書いたり、ビデオ教材などの視覚資
料を使って学習したものは、聴覚障害学生の頭に入っている。しかし、健聴学生のような耳学
問がないために、一般的に「これは知っていて当然」と思われる事柄を知らないことも多々あ
る。そこが見落とされてはならない。
 すべての教科について言えることだが、家庭教師の進め方は、聴覚障害学生の横で解説を
する通常の家庭教師の方法では、まったく意味がない。なぜなら、聴覚障害学生は、聞きとる
ことができないし、難聴学生の場合でも、似ている単語を聞き分けることができないからであ
る。
 普通校通学と聾学校通学とを経験し、普通校通学時に家庭教師を経験したことのある聴覚
障害者は、こう言っている。

  私は、似ている言葉を聞き分けるといったことは全く出来ません。
  補聴器をつけても音が聞こえるだけで、内容は全く分かりません。
  中学の時、よく先生や友達が私の耳元で大きくゆっくり話してましたが、そ  れは私にとっ
ては迷惑でした。
  大声を出すより、紙に書いてくれ!っていう感じでした。
  訓練はろう学校時代に発音と読話の訓練だけです。
  聴能訓練もやりましたが、音だけで言葉(単語)の判断とかは無理です。
  これは、聴力レベルと個人差によりますが、私の場合は100dbを超えている  ので補聴器
をつけても音しか分かりません。
  (中略)
  家庭教師に勉強を見てもらっていた時は、ほとんど筆談でした。
  普通の会話は、口話と読話でしたが・・・。
  (中略)
  例えば、英語の単語を書いてアクセントや意味を書いてもらい、少しずつ訳  するとか・・。
  時間がかなりかかりますが、こういう方法でやっていました。

 このことからも、聴覚障害学生に通常の「言葉で伝える家庭教師」は、意味がないということ
が確認されうる。家庭教師は、つねに聴覚障害学生の横で、紙に書きながら授業支援を進め
なければならない。そこに書かれた内容を聴覚障害学生も一緒に書くことによって、勉強を進
めて行くのが良いだろう。
 授業がある程度進んだ段階で、かならず、本当に理解したか、覚えたかを同じ設問によって
確認されなければならない。この作業は、家庭教師の側が勝手に、「知っていて当然」と考え
て、理解されていないまま通り過ぎてしまったものがないかを確認する作業でもある。理解され
ていないのに、理解したことを前提に話を進めてしまうと、聴覚障害学生は、単にその先を理
解することが不可能になるだけではなく、家庭教師の意義を信頼できなくなるかもしれない。
 「似ている言葉を聞き分けるといったことは全く出来ません(4)」というのは、英語の学習に大
きく作用してくる。「sad」と「said」、「night」と「light」、「walk」と「weak」といった、健聴者なら聞き
分けられる似ている発音の言葉が聞き分けられない。そのために、混同したり、混乱し、理解
できなくなる。こういったハンディも、通常の学校や家庭教師では、「この子は注意力がないか
ら……」と言われて、終わってしまうことも多い。もちろん、これは注意力がないためなのではな
く、聴覚障害に起因する必然的な問題だ。
 英単語も、漢字教育の場合と同様に、読みと意味とのリストを作成し、それにもとづき指導し
なければならない。そして、似ている英単語については、聴覚障害学生が視覚で判断できるよ
う、両単語の違いを明確に示す表などにまとめておかなければならない。
 家庭教師をする際、家庭によっては、「勉強しながらどうぞ」と、お菓子やガムなどを出される
ことがある。そういった場合、お菓子やガムを絶対に口にしてはいけない。なぜなら、家庭教師
の口の中にお菓子やガムが入ることで、聴覚障害学生が家庭教師の唇を読めなくなってしまう
からである。また、残存聴力を使用しうる難聴学生は、家庭教師の発音が悪くなることで、今ま
で聞き取れていたことも聞き取れなくなるからである。したがって、お菓子やガムが口に入るこ
とで、コミュニケーション障害が生じてしまう恐れがあることも、認識されなければならない。
 さらに、聴覚障害学生を指導する場合、家庭教師はその横に座るので聴覚障害児との距離
が近くなる(5)。そのために、家庭教師は、つねに衛生面や口臭予防に気をつけ、身だしなみと
歯磨きとを忘れてはいけない。歯ブラシは、つねに携帯されるべきである。
 健聴者の子供の場合、テレビを見ることで自然と言葉を覚える。しかし、聴覚障害児にとっ
て、テレビはあまり有効な情報収集手段ではない。それに対して、学校教員の中には、「行政
から、文字デコーダーの補助金をもらっていて、字幕付きのテレビを見ているから、問題ない
だろう」と考える者もいるかもしれない。しかし、そういった発想は、的を外れていることがある。
字幕では、効果が表れない聴覚障害児が少なくない。なぜなら、聴覚障害児にとって、大人対
応で作成された字幕には、知らない漢字が多いからである。したがって、読めない単語や、意
味の分からないまま素通りされてしまう単語が多いことが認識されなければならない。そのた
め、「テレビのニュースでやっていることだから、分かっているだろう」という前提も通用しない。
かくして、学校の勉強だけではなく、アップ・トゥ・デイトな一般常識を注入するということも、家庭
教師には必要なことである。将来的に文字デコーダーは、子供でも読めるように、読みがなつ
きの字幕に切り替えられることが期待される。
 聴覚障害児のための読みがなつき字幕も大事であるが、大人のための読みがなつき字幕も
等しく大切である。ところが、大人向けの字幕つき番組放送の時間数も、かなり少ない。この背
景には、著作権法が聴覚障害者の存在を想定していないか、もしくは想定していたとしても、
前述の文字デコーダーで補えない部分があり、いずれの場合も各家庭がそれらを設定するに
は、技術的に無理がある。さらには、著作権法が聴覚障害者の存在を前提していないため
に、テレビに字幕をつける際は、放送局側が著作権者に金銭的な対価を要求されてしまうとい
う事情もある(6)。そういった著作権法の陥穽を埋めていかなければ、テレビ字幕の普及、まし
てや子供向けの読みがなつき字幕の普及は、実現されえない。早急に著作権法が改正される
必要がある。
 文字デコーダーとともに活用を期待されるのは、マイクロソフト社の『メッセンジャー』である
(7)。Windows XPに標準搭載されているが、XP以前のバージョンには搭載されていない。よっ
て、一般社会的に広く知られておらず、聴覚障害者社会にも浸透していないソフトである。『メッ
センジャー』を使えば、電話のようにリアルタイムで文字を交換できるため、聴覚障害者のコミ
ュニケーションには有効であろう。
 特に聴覚障害児の場合、国語の文章力をつけるために、難聴学級や聾学校において「日記
指導」が実施されており、その指導のもとで、毎日日記を書くことが義務付けられている。この
日記指導は、聴覚障害児にとって、文章を書くことを強制されているようなイメージが強く、大
変な苦痛である。
 しかし、聴覚障害児が家庭教師と一緒に『メッセンジャー』を活用するのであれば、自分の書
いた文章に対して、家庭教師から返事がリアルタイムで得られる。自分の書いた文章に対する
返事がリアルタイムで受けられるということは、聴覚障害児にとって、大きな喜びである。そし
て、文章が「会話」になり、文章のみならず、自分の気持ちまでもその場で受けてもらえること
は、聴覚障害児にとって楽しみであり、学習であり、魅力なのだ。また、家庭教師が聴覚障害
児の家にいないときでも、週に数回『メッセンジャー』を活用することが、聴覚障害児の国語力
発達に大きなプラスとなるであろう。
 このメッセンジャーは、マイクロソフト社がすべて無料で提供し、Windows XP以前のOSでも
使用できるので、聴覚障害児教育において積極的に活用されるべきソフトである。
 そして、『メッセンジャー』は、メールの着信や相手のオンライン情報など、様々な情報を音声
とともに、視覚情報としても通知するという点においても、聴覚障害児教育には大変利用価値
が大きい。
 将来的には、この『メッセンジャー』を聴覚障害児教育だけではなく、聴覚障害者一般の各家
庭、役所、病院などでのコミュニケーション手段として、また警察や消防などの緊急連絡手段と
して、積極的に社会的役割を果たすであろう。
 聴覚障害児教育にパソコンを導入する場合、聴覚障害児は、警告音や音声メッセージなど
を聞き取れないという問題に直面する。そういった場合には、聴覚障害児がパソコンの警告音
を音声ではなく、視覚情報として認知できるよう、システムの変更をしなくてはならない。マイク
ロソフト社は、Windowsを対象に「聴覚障害がある方のためのリソース ガイド」を公表している
(8)。それは、無償で利用・活用できるパソコンのシステム変更なので、積極的に活用されるべ
きであろう。
 聴覚障害学生の家庭教師活動は、有償であろうと無償であろうと、ボランティア活動として行
なわれると、聴覚障害学生を持つ家庭でも、家庭教師を依頼しやすくなるであろう。
 ボランティアの家庭教師に関しては、その活動の重さからして、最低賃金の1.6倍以下で行
なわれるのが望ましい。たと最低賃金の1.6倍以下であったとしても、家庭教師には、これま
でに述べた様々な指導のための、多くの準備が必要である。準備時間も労働の一部であると
すれば、1.6倍以下であっても、実質的には法律で定められた最低賃金と同程度ということに
なると考えられるからである。
 このような条件のもとで、この活動は有償ボランティアと位置付けるべきだ。
 家庭教師による聴覚障害児学習に関して、週に数時間の家庭教師だけでは、まかない切れ
ないのが実情である。それを補う何かが必要とされる。そこで注目されるのが、「聴覚障害児
のフリースクール」である。


3.聴覚障害児のためのフリースクール

 聴覚障害児の学習を補う有効な手段のひとつとして、聴覚障害児のためのフリースクールが
ある。幼稚部、小学生の部、中学生の部とあるが、一般的にフリースクールの場合は、小学生
を対象にすることが多いので、ここでは、「聴覚障害児」という言葉を使うことにする。ここでは、
大阪の事例を取り上げて、この問題を考察する。
 フリースクールというと、一般的には「学校に適応できなかった子供が、学校に行かずに通う
所」というイメージが強い。しかし、このケースにおいては、普段は地域の学校に通い、放課後
や学校の休みの日に通う、「放課後学校」的な色彩が強い。
 子供達は、1ヶ月に1回程度、フリースクールに通い、そこで手話を通じ合える仲間達を作っ
たり、フリースクール担当者と接したりしている。最初は手話ができなかった子供達も、著しく手
話が上達する。フリースクールで使われている手話レベルは、市民手話勉強会などで行なわ
れている上級者クラス程度の極めて高度なコミュニケーションを用いるレベルにある。
 フリースクールのスタッフも、子供達と同じように、全員が聴覚障害者である。つまり、そのス
タッフは、手話のネイティブ・スピーカーであるために、子供達も「活きた手話」が学べるのだ。
フリースクールでは、音声言語がほとんど使われない。そのために、その空間は、さながら手
話言語しか用いられていない国に留学したような雰囲気となる。そういった雰囲気の中で、フリ
ースクールの子供達は手話を学んで行くことができる。
 また、スタッフも聴覚障害者であるために、フリースクールの子供達の個人的な悩みなどに
応える「良き相談相手」にもなりうる。
 フリースクールでは、市民手話勉強会のような「みんなで手話を学びましょう」といったことは
されない。それはむしろ、手話学習を子供達の自主性に任せ、遊びを通して手話を自然と身に
付けさせるのである。
 なぜなら、いくら聴覚障害児とは言え、手話勉強を強制されるのは大変苦痛であり、負担が
大きいからである。「子供達の自主性に任せ、遊びを通して手話を自然と身に付けさせる」とい
うフリースクールの方法が一番効果的であることの証明は、子供達の寡黙で饒舌、そして極め
てハイレベルな手話によって示されている。
 また、フリースクールにおいては、子供達に何かを説明するときは、必ずこれまで撮った写真
を使わなければならない。写真については、家庭教師による説明でも行なった通りである(9)。
フリースクールのスタッフは、家庭教師の場合と同様に、視覚で訴えることのできる手段である
写真を用いながら、手話で解説をすることにより、子供達の理解度や語彙力を深めることがで
きる。つまり、手話だけではなく、写真やビデオ上映などの視覚に訴えることのできる様々な手
段を用いるのが、重要なのである。ビデオ上映の場合の字幕は、子供でも読める、読みがな
つきのものでなければならないことは、言うまでもない。
 子供達が遊んでいる間、その親達は聴覚障害に対して理解を深める勉強をすることが、極
めて重要である。したがって、フリースクールの側が専門家を呼んで、親達に対して聴覚障害
に対する勉強会や、手話勉強会を用意することで、親達は「自分の子供の障害は、何なのか」
を知る、重要な機会を得ることができる。
 手話教育に対して、聴覚障害児教育関係者の中には、「手話を使うと、日本語の語彙力が
減るから、使わせてはいけない」という意見を持つ人も多い。しかしながら、手話を知らないま
ま大人になる北海道の聴覚障害児と、子供の頃から手話を覚えて成長する大阪の聴覚障害
児を比較した場合、そうした聴覚障害児教育関係者の意見は、議論に値しないものであること
が一目瞭然である。
 大阪で手話を身に付けて育った子供達は、手話を通じて様々なことを覚えられる。仲間達か
ら、両親から、そしてテレビの手話通訳者などから、様々な情報を身につけることができる。と
くに、両親からの情報は、聴覚障害児にとって重要である。なぜなら、聴覚障害のあるなしに
かかわらず、大抵の子供は両親からの情報を主要かつ不可欠な情報として育つからである。
 聴覚障害児は、たとえ軽度難聴であったとしても、似ている言葉の聞き分けが困難である
(10)。それゆえに、両親との会話で手話が使えるということは、聴覚障害児にとって不可欠な大
量の情報と接する機会を得ることになるのである。そして、似ている複数の言葉の違いなども
学ぶ絶好な機会となるのである。
 手話を身につけて育った子供は、両親が手話を使って説明するのを見て、情報や語彙力を
増やす。とくに、似ている複数の言葉の「聞き分け」などは、手話がなければほとんど不可能な
ことである。手話を用いたコミュニケーションを使うことで、語彙をより豊富にすることができる
ことは、専門家によって指摘されている。たとえば、後藤正治弁護士は、「目だけからの場合に
は、恐らく情報収集能力と学習能力は20パーセントくらいに低減してしまう」と論じている(11)。
 また、聴覚障害児は、手話の通じる仲間達で話すことにより、抽象的な概念も身につけるこ
とができる。つまり、仲間達でハイレベルな手話を使うことにより、抽象的な概念でさえも自然と
身につけるのである。
 他方、聴覚障害者の中には、手話が分からず、学校での口話教育もあわず、コミュニケーシ
ョン手段がなかったために、読み書きができなかったり、精神遅滞を起こす人もいる。そのこと
は、聴覚障害者を扱った、最高裁における2つの判例でも示されている(12)。聴覚障害児に対
する適切なコミュニケーション方法を用いた教育が、それらの判決の中で一定評価されてい
る。
 北海道において「聴覚障害児のフリースクール」と言うと、「ただ、子供をあそばせておく場
所」と誤解されがちである。そのために、難聴学級などでも、ただ子供を遊ばせるだけで、子供
達にはまったく手話を覚える機会がない。こういった問題は、聴覚障害児を持つ北海道の親達
の間でも問題視されている。そして、「難聴学級は意味がない」と言って、子供を難聴学級に通
わせない親も少なくない。
 北海道では、難聴学級によって、難聴児の親向けの手話教室が開かれている。しかしなが
ら、子供が手話を知らない以上、親が手話を勉強しようとしても、緊張感を持続できず、その結
果、手話教室の効果がまったく上がっていないのが実情である。
 また、聴覚障害児を持つ親が、実質的に聴覚障害に関して勉強する機会がなく、親の間でも
それに関する知識が深まっても、広がってもいない。これは、フリースクールで親も学べる大阪
とは、まったく正反対の事象である。そのために、北海道の聴覚障害児の親の大半は、後で
子供が手話を覚えても、「自分には、手話が必要ないから」と言う結果になっている。また、親
子間のコミュニケーション手段がまったくない家庭さえある。家庭内においても口話教育に適
応できなかった聴覚障害児達は、そうして学習が遅れてしまうのである。
 デンマークの聴覚障害児を持つ親の会である「ボナンベンチュラ」では、「聴覚障害児の親
は、熱心ではない普通の親でいられる権利がある」と明言されている。確かにその通りである
が、デンマークにおいても日本においても、親には子供の扶養義務がある以上、親が聴覚障
害児問題について最低限の知識を身に付けるのは当然のことである。「ボナンベンチュラ」の
この見解の積極的な意味は、聴覚障害児の親でも普通の親と同じようにいられる社会的・客
観的条件の必要性を訴えているのかもしれない。
 北海道の難聴学級や聾学校の教員は、手話ができない。それゆえに、聴覚障害児の親達
は、その教員に子供の養育相談をしても、適切な返答が来ないのが実情である。そのため
に、聴覚障害児の親達は、なかなか養育相談の場を得られないという限界がある。一方、大
阪などでは、フリースクールを行なっている担当者に対して、気軽に養育相談をすることができ
る。この点でも、北海道におけるフリースクールの必要性が、浮き彫りになる。
 大阪以外の地域にも、フリースクールはある。たとえば、神奈川県のフリースクールにおいて
は、そのスタッフである聴覚障害者が、次のように述べている。

  ……私が関わっていたフリースクールでもインテグレーシ
  ョンの子が多く、最初はコミュニケーション能力や人間関係が
  難しかった子が2〜3年(そのくらい関わっていました)で問
  題行動が減少するなどの目覚ましい成長を見せてくれました。
  (中略)
  私の場合は聴覚障害者といえどもまるで聞こえる人のように育
  ったんですが、聴覚障害児と会う機会はあっても実際コミュニ
  ケーションはできてなかったため、本当の人間関係の中の細か
  いマナーというものを知らないまま大学に入ってしまったとい
  う自覚があります。
  だから子供達には早くから集団(自分をだせる環境)行動をじ
  かに経験することで人間として大きく成長して欲しいと願わず
  にはいられません。

 聴覚障害児の中には、コミュニケーション手段がないために、周囲の児童を叩いたり、騒い
だりすることで、自分の気持ちを伝えようとする子供もいる。学校などでは、問題行動と捉えら
れがちであるが、これはコミュニケーション手段のない聴覚障害児の唯一の意思表明にすぎな
いのである。しっかりとした意思表明し得るコミュニケーション手段さえあれば、こういった問題
行動はなくなる。
 ところが、学校によっては、聴覚障害児にコミュニケーション手段を与えないまま、問題行動
がある聴覚障害児を頭ごなしにしかりつけることも見受けられる。これは、まったく有害であ
る。その教員の行動は、なんの効果もないまま、聴覚障害児の個性をなくしてしまい、またその
将来性を閉ざしてしまっている。
 ここで、以上において述べたことを正確に説明しておくことにする。それは、「家庭教師事業
やフリースクール事業がないから、必ず学習の遅れが出る」という訳ではない。また、「聴覚障
害学生が手話を知らないから、必ず学習の遅れが出る」という訳でもない。聴覚障害学生は、
様々な方法で学習に励んでいる。独学で学校の勉強に対応している聴覚障害学生も多い。そ
して、手話を知らずに育ち、口話法のみで、学習や生活に対応している聴覚障害学生も多い。
聴覚障害者の山田裕明弁護士も、そういった聴覚障害学生の1人だったそうである。
 しかしながら、すべての聴覚障害学生が、口話法だけで、そして学習のサポートなしに、有意
義な学生生活を送れる訳でもない。口話法だけの学校教育に対応できる聴覚障害学生と、そ
れに対応できない聴覚障害学生とがいる。それに対応できない聴覚障害学生を放置せず、そ
れに対応するための様々な選択肢を提供する必要があるのである。そして、その選択肢は、
教員やフリースクール担当者などの第三者ではなく、聴覚障害学生自身と、その聴覚障害学
生に教育を受けさせる義務を負う両親とが議論した上で、選ばれなければならない。
 家庭教師事業に関しても、フリースクールに関しても、不正が生じないように注意が払われな
ければならない。とくに、フリースクールに関しては、旅行や宿泊研修のような行事などのため
に聴覚障害児の保護者やボランティア・メンバーから金銭を徴収することがある。福祉事務所
やグループホームなどでも、金銭の不正使用が実際に起こっている。たとえば、山上賢一著
『社会保障改革の課題』では(13)、次のような事例をあげている。

  ……施設世話人は「金銭管理の援助」をするのが仕事である。しかし、使い
  込みが起きたグループホームでは、四人の利用者全員の通帳と印鑑を世話人
  1人で預かっていた。この県内の他のグループホームでは、通帳と印鑑を世
  話人と支援施設が別々に預かるところもあった。この育成会は管理面で落ち
  度があったと言わざるを得ない。

 そういった問題を防止するためにも、金銭などは必ずボランティア・メンバーと聴覚障害児の
保護者など複数の人々で管理し、相互にチェックする体制が整えられなければならない。


4.まとめ

 それでは、聴覚障害児教育において、北海道が遅れていて、大阪が進んでいるのであろう
か。そうではない。大阪のフリースクールなど、関西の障害児教育において確立された人権
は、関西の歴史、伝統、風土によって形成されているものである。つまり、北海道と関西には、
それぞれ異なる社会的課題と客観的条件が基底しているのである。
 京都府綾部市にある「特別養護老人ホーム いこいの村梅の木寮」という聴覚障害者施設で
は、多くの聴覚障害者が暮らしている。その中には、社会的な客観条件のせいで、誤解された
りして、取り返しのつかない青春時代を送ってしまった聴覚障害者もいる。
 ある聴覚障害者は、聴覚障害と軽度の知的障害を重複して持っている。その人は若い頃、
作業中に誤って失火をさせてしまい、そのことで村人から「この聴覚障害者は危険だから、精
神病院に入れて、外に出すな」と差別された。そのために、いこいの村ができるまでの何十年
もの間、精神病でもないのに、その人は精神病院に閉じ込められていたのだという。作業中の
失火というのは、健常者でも
起こりうる過失である。また、その作業において、その聴覚障害者に対する周囲の理解とサポ
ートもなかったことだろう。「危険だから、精神病院に入れろ」という言葉で、その人の人生を台
無しにしてしまったと考えられる。
 その聴覚障害者は現在、いこいの村で、本当に人間らしい、活き活きとした生活を送ってい
る。ただ、いこいの村所長の「この人の青春時代は帰ってこない」という言葉は、本当に重く感
じられた。
 一方、北海道の社会を見ると、関西に比べ、人権に関する問題意識が低い。この低さが、ふ
たつの点で、関西との違いを生み出している。ひとつは、人権侵害と認識されることも少なくな
り、その結果、人権侵害がほとんどないような外観を呈している。もうひとつは、その結果、人
権意識が益々希薄になり、関西における人権意識と大きな格差がもたらされている。
 「みんな同じ」という発想が、差別の見えない社会を築き上げている反面、「みんな同じ」とい
う発想は、聴覚障害児に手話コミュニケーションを得るための機会を与えなくても、まったく問
題意識も緊張感も持たない社会を作り上げてしまっている。
 「みんな同じ」という発想の良い面を活かしながら、差異を認めあえる社会を作って行かなけ
ればならないであろう。
 聴覚障害児に対して、手話教育やフリースクールを提供することは、「必要がない」と考える
教育関係者も少なくない。しかし、そういったことを「必要がない」と考えることは、聴覚障害児
が直面している現状の課題と向き合っていると言えるだろうか。それは、聴覚障害児にとって
の「平等な尊厳」という観点からも問われなければならない。
 「平等な尊厳」という言葉を「みんな同じ」と安易に受け止められてはならない。カナダのケベ
ック問題などに取り組んでいる政治哲学者、チャールズ・テイラーは、「平等な尊厳」について、
「全ての人間が等しく尊敬を受ける価値があるという観念」としている。これは、「すべての人が
尊敬に値することを保障する」という意味である。そして、その対象範囲は「障害者、あるいは
昏睡常態にある人々」にも及ぶとしている(14)。
 手話コミュニケーションを得るための機会を与えられず、学習のサポートが充分でなく、さら
には教育現場において手話を禁止されている北海道の現状が、テイラーの言う「平等な尊厳」
と言えるだろうか。他者から支配的に価値観を押し付けられることは、「尊敬に値する」と言い
難い。「不作為的な差別」という現状が、北海道にはあるのかもしれない。つまり、「みんな同
じ」という表面的な「平等」が、「不作為的な差別」を生み出しているとも考えられるのである。
 テイラー自身も、この問題に関して、「支配的な文化の反映」とした上で、「平等で差異を顧慮
しないと想定された社会は非人間的である(アイデンティティを抑圧するから)ばかりでなく、潜
行的で無意識な形において、それ自体きわめて差別的なのである」としている(15)。
 手話教育や、聴覚障害児の学習支援を否定する聴覚障害児教育者は、この不作為的な差
別を自己認識しなければならない。自らが障害児に対する支配者となっており、要するに差別
する側に立っていることを認識すべきなのである。つまり、それらの教育者は、学校教員なの
であって、支配者になってはならない。
 実際、テイラーが活躍するカナダのケベックにおいては、「フランス語の看板は要求できる
が、英語の新聞を禁止することはできないといった範囲内で」、独自の文化や活動を認めてい
る。このことは、テイラーが主張する「第二の種類の自由主義」であり、「特定の民族、文化、宗
教、あるいは(限られた)一連の民族、文化、宗教の存続や繁栄を支持する国家を許容するも
のである」(16)。そうであれば、北海道においても、聴覚障害児に対する手話指導や学習支援
活動が見直されなければならないことになる。
 それとは逆に、教育関係者が手話を禁止したり、手話を必要ないと考えるとすれば、それは
排除の論理である。こういった排除の論理を実践した世界的事例が、ナチス・ドイツである。ナ
チス・ドイツは、ユダヤ人と一緒に障害者を強制収容所に入れ、ガス室に送り込んだ。人間
が、他人に対して支配的となったがために起こった実例である。
 また、現状の教育方法は、子供の権利に関する条約の第2条に定められた心身障害の差別
の禁止に違反している。第2条では、「締約国は、その管轄の下にある児童に対し、……心身
障害、出生又は他の地位にかかわらず、いかなる差別もなしにこの条約の定める権利を尊重
し、及び確保する」と規定されている。そして手話コミュニケーションを得るための機会を与えな
いことで意思表明できないことに関しては、第12条で定められた意思表明の権利に違反して
いる。かくして、現状の教育方法は、国際法的にも問題のある行為だと言わなければならな
い。
 日本には、「七福神」の思想がある。七福神の7人の神様のうち、弁天以外の6人が障害者
である。唯一の健常者である弁天も、当時は権利を持ち得なかった女性である。この発想は、
先人達が考えた、社会的弱者に対する思いやりだったのかもしれない。そうであれば、現代人
の私達は、先人達の発想をもう一度振り返ってみる必要があるのではないだろうか。「神」とさ
れていた障害者に、現代社会はどのように接しているだろうか。
 七福神のうち、えびすは聴覚障害者である。「えびす」が聴覚障害者だからこそ、関西のえび
すを祭る神社では、参拝者がドラなどを叩いて大きな音を立てるのである。それは、参拝者が
「えびす」に気付いてもらおうとするためである。それゆえに、関西において「えびす」という単語
を表す手話は、両手で両耳の耳たぶを下に引っ張って表現される。こういった手話表現がある
のは、関西の聴覚障害者に、「えびす様は、聴覚障害者だった」というプライドと、そこから生ま
れる強い権利意識が存在するからなのだろう。
 驚くことに、このえびすという手話表現は、北海道では使われておらず、えびすという手話表
現を知らない聴覚障害者が大半を占める。えびすが何であるかさえも、聴覚障害者社会に浸
透していない。北海道において聴覚障害者の権利意識が広がらないのは、そのためかもしれ
ない。
 北海道における聴覚障害者の権利意識が広がるためには、この「えびす」という手話表現を
広げることが、ひとつの方法かもしれない。「えびす」以外にも、その権利意識を向上させる効
果的な方法があるかもしれない。様々な方法で、北海道の聴覚障害者の権利意識を向上させ
ていかなければならない。


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(1)「日本手話で授業を 人権救済申し立て」『北海道新聞』2003年5月28日、朝刊30頁。
(2)http://www6.shizuokanet.ne.jp/m_goto/settou.html
(3)本稿3頁18行参照。
(4)本稿5頁7行参照。
(5)本稿5頁25行参照。
(6)「権利としての情報保障」『手話コミュニケーション研究』No.45、2002年9月、2-8頁。
(7)http://messenger.msn.co.jp/
(8)http://www.microsoft.com/japan/enable/training/guides/hearing.asp
(9)本稿4頁23行参照。
(10)本稿5頁7行参照。
(11)前掲註(2)参照。
(12)岡山の事例 最高裁 平成3年(あ)第1048号 同7年2月28日第三小法廷決定 棄
却。
京都の事例 最高裁 平成8年(あ)大204号 同10年3月12日第一小法廷判決 破棄差
戻。
(13)山上賢一著『社会保障改革の課題』、有斐閣学術センター、2001年、121-122頁。
(14)チャールズ・テイラー、佐々木毅・辻康夫・向山恭一訳、「承認をめぐる政治」『マルチカル
チュラリズム』岩波書店、1999年(Charles Taylor, K.Anthony Appiah, Jurgen Habermas, 
Steven C. Rockfeller, Michael Walzar, and 
Susan Wolf, MULTICULTURALISM, 1994 Princeton University Press)。
(15)前掲註(14)参照。
(16)マイケル・ウォルツァー、佐々木毅・辻康夫・向山恭一訳、「[コメント]二つの自由主義」『マ
ルチカルチュラリズム』、前掲註(14)参照。



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