「OGFオリガンリレー小説〜ケ・セラ・セラ〜」 第1回更新分
夜中の雨が洗い流した早朝の冷たく澄みわたる青空に、見捨てらたゴムマリのような月がぽっかりと浮かんでいる。
少年は、遙か上空三十八万キロ彼方に浮かぶそれを、数キロ先にある万年雪を冠した荘厳な山々と、同じくらいの距離にあるように感じながら見上げていた。
少年にとっては、それが如何ほどの距離にあったとしても、世界の果てであることに違いはなかったが、あの月にも人が住んでいることは知っていたし、自分も一生に一度くらいは行ってみたい、と思ったりもする。
セピア色の痩せた山間の村で生まれ、外の世界など知らない、つるりとした顔立ちの浅黒い子供たちの中にあって、少年は異彩を放っていた。
顔立ちや、背丈や体格は他の子供たちと遜色なく、髪も黒かったが、肌は、彼が今眺めている月のように白く、瞳は、中天の青空のように碧かった。
少年を含む、年齢も性別もまちまちな子供たちが、山羊の世話など、彼らに充てられた朝食前の仕事を終える頃、再び雲が空を覆い、迷子の月もその影に紛れ、姿を消した。
そしてその代わりに姿を現したのは、見知らぬ、年代ものの巨大な白い四駆だった。それは舗装などされていない、道と呼ぶのもおこがましい村で唯一の道を、ゆっくりと、ごつごつとあちこちに転がる岩を慎重に避け蛇行しながら、少年たちの方へ上ってくるところであった。
ようやく村の外れに辿り着いた四駆は斜に停車した。
それは、狩りをする肉食獣が獲物の前でなんでもないふりをしてみせているかのようでもあり、あからさまに怪しかった。
ちょうど雲間から降り注いだ陽光の照り返しで、車内の様子も知れなかったが、うかつに近寄ってよいものか逡巡する暇もつかず、少年たちは、普段見慣れぬ自動車への、好奇に瞳を輝かせ、それに駆け寄っていった。
しかし、それを拒むようにしていなないた野太いエキゾーストノートに、少年たちの小さな影は灰色の荒野にぴたりと縫いつけられてしまった。
いつの間にか村中の、といっても三十人足らずが、総出でそれを出迎えていた。少年たちを含む村人全員が、遠巻きに見守る中、来訪者を乗せた四駆はアイドリングを止め、ドライバー側の左ドアを開けた。
白いニーソックスに包まれた、細くしなやかな脚がそこから伸び、それには不釣り合いなほど大きなトレッキングブーツが、しっかりと力強く、乾いた大地を踏みしめ、臙脂色のチャイナドレス風ワンピースの上に、胸に円形の紋章をプリントした黒い革のライダースジャケットを羽織るという、この土地には似つかわしくない、奇異ないでたちで、少年と同じ白い肌の若い女性が、ゆっくりと、仰々しく降り立ち、黒く豊かな前髪をかきあげた。
車から降りてきた若い女は、他に同伴する者もなく、ただ独り、出迎える村人にむかって歩き始めた。
普段、この荒れ地を自在に走り回る少年たちからすれば、彼女の歩みは恐ろしく慎重で、辿々しく、……遅い。
艶やかな長い黒髪のポニーテールと、顔面を半分覆ってしまっている前髪を、ゆらゆらと揺らし、彼女は車からの僅か数十メートルを、ぜいぜいと息を切らしながらも、少年に向ける視線は、ぎらぎらと品定めする獣のように輝やかせ、他には目もくれず、ただ、少年に的を絞っているということを、ありありと周囲に知らしめながら進む。
少年の周りにいた子供たちは、次第にじりじりとその場から、少年から離れ、後方の大人たちの中へ紛れていった。
しかし、少年だけはその場から離れられなかった。近づいてくる、自分より数歳年上の、まだ、少女と呼ぶに相応しい来訪者の飾り気はないが仕立ての良い眼鏡越しのぎらつく視線から、逃れられないでいた。
少年は、自分と同じ肌の色をした彼女を何故か、あり得ない年齢差であることは明らかながら、実は彼女こそが自分の本当の母親なのでは、という幻想に浸っていた。
数年前に他界した少年の父と母は、他の村人となんら変わりなかった。もしかすると、自分は本当はこの土地の人間ではないのだという、幼きより抱いていた漠然とした不安が、今、急に現実味を帯び、少年の心をかき乱す。
放心の少年は、まるで少女に吸い寄せられるように、一歩踏み出した時、大きな手に行く手を阻まれ、正気を取り戻した。
村の最長老の息子(とはいえ、少年の父親以上の年齢である)は、少年の胸の前に差し出していたその硬くたくましい腕を、肩へまわして力強く抱き寄せた。
彼は少年が見上げると、いつもの厳格な表情を一時崩して、慈愛に満ちた微笑みにかえ、ぐしゃぐしゃと少年の頭を撫でてから、肩に掛けていた背負子を慎重に降ろし始めた。
背負われていたのは最長老だった。その作業が終わると、ようやく少女が彼らの前に到着した。
少女が手を膝につき、うつむいて喘いでいるのを、その呼吸が整うまで三人は静かに見守った。
落ち着きを取り戻した少女と最長老達の会話が始まり、十数分が過ぎた。会話は、少年の聞いたことのない連盟標準語で交わされていた。
村の最長老とその息子が、そんな言語を話せた事にも驚いたが、少女の口から「アグゼ」と自分の名が発せられたことに思いもよらぬ衝撃を受けた。彼女は以前より、彼を知っていたのだ。
自分はこの村の人間ではないのでは、という心中の疑惑が、凍えるような凝結音をたて、真実へと固まっていく。肌が粟立ち、膝が笑いだす。
アグゼは、慌てて最長老たちの顔を覗き込んだが、彼らはただ、熱弁を振るう少女に、皺のように細い目をじっと向けたまま、取り合ってはくれなかった。
ふと振り返ると、一堂に会した村人たちの出迎えが、アグゼを見送るためのそれに一変してしまったように感じた。
熱い大粒の涙が、アグゼの頬を、本人も気付かぬうちに流れだし、濡らしていた。
いつの間にか、少女の話は終わっていた。最長老の息子が、村の方に振り返りアグゼの叔父と叔母を呼んだ。アグゼは、鼻をすすり、彼を見上げた。大きな手が慈しむように小さな肩を包むと、アグゼは思わず、声ならぬ声をあげ、泣きじゃくった。最長老の息子は、膝をつき、優しく、アグゼを抱きしめた。
次いで、叔父が、そして最後に叔母が。
両親(本当はそうではないが)を事故で失って以来、実子のように……否、実子と同じに面倒をみてくれた夫婦共々、涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らしていた。
それともう一人、少女はメガネを手に、革ジャンの内ポケットにしまっていたハンカチを絞れるほど濡らして、この光景に、もらい泣きしていた。
*
村を出てしばらくは、車内はストリングス中心の静かな音楽が流れるだけだった。後部座席には、アグゼの、それほど多くはない荷物が、車の揺れに合わせて転がっていた。
アグゼは、村を離れる不安、親しい人たちと別れた悲しさや寂しさで、初めて乗る自動車を興ずることも出来ず、景色を眺めるでも音楽を聴くでもなく、ただ呆然と、彼なら七、八人は並んで座れそうな前席の、少女とは正反対の右端に腰掛け、揺られていた。
時々、窓に頭をぶつけるほど激しく揺れ、少女になにやら声を掛けられるも、アグゼは反応できなかったし、少女も、道無き道を運転するのに全神経を注いでいるらしく、それ以上構っていられずにいた。
数時間後、ようやくましな道に合流すると、少女は車を停め、アグゼににじり寄ってきた。革ジャンの内ポケットからコードレスのイヤホンをふたつ取り出すと、ひとつを彼の掌にのせ、もうひとつを彼女自身の耳につけて見せた。
アグゼが理解できずに、ぽかんと見つめ返していると、彼女はイヤホンを取り戻し、彼の耳に近づけた。緊張し、身構えたアグゼに、少女が優しく声を掛けると、彼の耳元で、「大丈夫、心配しないで」と何かが囁いた。アグゼは驚いて跳上がり、彼女と彼女の持つ機械とを見比べ、少女は優しさと意地悪さを併せ持った笑顔で応えた。
「大丈夫、これを耳につけたら、言葉が通じるようになるの、痛くなったりしないから大丈夫」
アグゼが目を閉じ、じっと、我慢するように身を縮めると、耳に冷たい物が入ってきた。くすぐったくて、キャッと声を上げた後、恥ずかしそうに少女の方を見た。
「ね、なんともないでしょ。私、フェリオ。よろしくね」
そういって彼女は右手を前に差し出し、にっこり微笑む。アグゼが戸惑っていると、その手がスっと伸び、彼の右手をつかんで、大きく揺さぶった。
道路に出てからのフェリスは饒舌だった。アグゼの寂しさを紛らわせようと必死だったところもあり、ペラペラと、彼女の同僚達の話(主に愚痴)をしていたかと思えば、美味しいレストランやパン屋の話しになったり、これまでの経緯に突然話しが変わったり、と、支離滅裂ではあったが、整然と話されたとしても殆ど内容を理解できないアグゼにとっては、緊張をほぐす役には立ったようで、彼も、次第に初めての自動車、初めて見る景色、初めて聞く音楽に、楽しめるようになってきていた。
そのうち山間の道を抜けると、少し開けた土地に出た。そこには、周りの景色に決して溶け込む事など出来ない、異様な建造物がポツンと建っていた。
「それでね、そのキセアって娘がさ、まぁ、簡単に言っちゃえばロボットなんだけど。人格が植え込まれててね、あ、でも、その脳みそがある訳じゃなくて、それもみんな人工のコンピューターとかで出来てんだけど、まぁ、そこんとこは色々あってね、わたしもよく知らないんだけどね。その娘のさぁ、君と……あぁ、あれ?」
アグゼがずっと、その建物を指さしてフェリオを見ているのに、ようやく彼女が気付いた。
「あれが、今日からあなたの家になるの。勿論、わたしの家でもあるんだけどね。宇宙船なの、すごい?」
宇宙船という単語に、アグゼは目を輝かせ、大きく頷いた。嬉しそうに、フェリオが初めて見る彼の、笑顔を浮かべて。
「て、言っても、どっかの輸送船の中古でさ。要らないカウリングとかは外して、代わりに武装してんの。勿論、戦艦とかには敵わないけどね。わたし用のMSも搭載してるんだ。あと、あの下の方の、デッカイきのこみたいのがあるでしょ、あれが『越境ドライヴ』って言ってね、まぁ、分かり易くいうと、違う世界に飛んでくためのエンジンなの」
フェリオの言っていることは、アグゼには理解できなかったが、宇宙船に住めると聞いて、彼は夢見心地の気分だった。彼は指を一本立て、柔らかな動作で天井を指し、フェリオの顔を窺った。
「え、なに?」
イヤホン(翻訳機)の調子が悪いのかと、フェリオは自分の耳にはめたイヤホンを突く。アグゼは首を傾げたが、天井を何度も指してみせた。
「え、もしかて……しゃべれないの?」
凄く驚いた表情のフェリオを眺めて、アグゼは少し表情を曇らせたが、天井を指すのを止めると、頷いて苦笑いしてみせた。
「生まれつき? それとも事故? 今だけ?」
彼女の質問に、アグゼは別段困りもせず、一度頷いてから、二度首を振った。
「あぁ、ゴメン」
フェリオもすぐに、質問は、一問一答の二択に限られるのだと察知して詫びる。彼女は、ふぅと大きく溜息をつき「これはもう要らないね」と耳からイヤホンを外し、ころんとダッシュボードに転がした。
二人は向き合って、互いに声を出さずに笑った。