殷王朝の支配領域
前17世紀ごろから前11世紀半ばにかけて黄河中流域を支配したいて古代王朝。
日本では殷とよばれることが多いが、これは次の周王朝がつけたもので、自らは商と称した。
周がなぜ殷と呼称する理由は明らかではない。




         〜殷の支配範囲〜
殷の歴史
「史記」などによれば、殷の始祖である契は夏王朝の創建に際して功をたて、領地をあたえられた。
そして、14代目の成湯が腐敗した夏王朝をほろぼして王位につき(湯王)殷王朝をひらいた。
殷王朝は首都を六回うつしたと「史記」に伝えられいるが、殷墟は最後の首都と考えられている。
殷30代目の紂王は、政治をかえりみずに酒色にふけり、国は大いにみだれ、西方の新興国家、周にほろぼされた、 とつたえられる。

殷の社会
殷は前11世紀前半にもっともさかえ、その文化圏は、遼寧南部、黄河中流域、山東西部、東シナ海、 安徽北部、陜西部中部にまでおよんだ。

殷の人々は「天」の意志を重視した。
王はさまざまな決定をする際にかならず占いをし、天の意志を確認して命令をくだした。
祭政一致の典型的な神権政治であった。
ほかにも、祖先の靈や自然界の神々も重要視され、彼らに対して動物や奴隷 などをいけにえとしてささげ、祭りをとりおこなうことも王の重要な役割だった。
祭祀は、暦と密接なかかわりをもち、 太陽の運行によって調節する太陰太陽暦を基本とした。

当時の社会は、特権階級の王族・貴族が奴隷やさまざまな職人集団を支配していた。
大型の墓には多くの奴隷が殉葬されており、甲骨文にも奴隷の記事がみられることから、 当時の社会に奴隷がいたことはまちがえない。

殷の文化
当時の職人たちによってつくられた青銅器は殷文化の最高峰を占め、世界美術史の中でも高く評価されている。
酒器・食器などにみられる器形・装飾は独創性にとみ、描かれた神々の姿は躍動感にあふれ、美術的価値は世界最高峰である。

西方のトルキスタンから玉が輸入され、美しい玉器が大量に作られる、後期に見られる馬で牽引する戦車も非常に発達した形式のもので、 軍隊の中心は戦車によって構成されたほど多数使用したが、現在のところ中期の遺跡からは車の遺物がまったく発見されないので、完成した戦車の 技術が西方から伝えられたのではいかと言われるが、当時の西域との関係は史料に欠け、不明である。

また、甲骨文字を使用している、大半が卜いの記録であるので卜辞ともいう。
しかし、残念ながら文字の起源は不明である。

殷の経済、食
この時代の経済は農業が中心で、華北は主としてキビ、アワが江南がイネ(水稲)が栽培された (小麦は未確認)。
これらの穀物を用いた酒の醸造も盛んで、殷が滅亡したのは、人々が酒におぼれたからだいう伝承もある。
しかし、農具は木製の耒や石製の鋤・鎌(石刀)などで、新石器時代とほとんど変化はない。
青銅製の斧やのみなどは貴族層の兵器あるいは工具として使用されたにすぎない。

当時の繊維製品は、麻が主材料であったが、養蚕による絹織物も生産されていた。
また、子安貝を貨幣として使用したとする説もある。

殷の諸制度
甲骨文によると、政治組織として、武官系統と文官系統に大別され、武官系統には 多馬、射、多犬、亜などの集団があり、軍隊には旅、師などの単位があり、いずれも左・右・中の3編成であった。
文官系統には、尹、史、作冊、吏、ク事などの官があり、祭祀や記録を扱ったされる。

また、手工、多工、百工、左工、右工とよばれるものがり、手工業者に関与した官と考えられる。
小臣、多臣などと称される貴族階層や、殷王室の同族中から選抜されとされる多子、多子族、王族などの集団があり、 王命を受けて随時祭祀や軍事上の任務に従事しているが、その構成は不明。

さらに女官には、婦、多婦とよばれるものがあり、殷王あるいは王子たちの夫人であったり、巫女のような ものであっと言われる、ときには軍事の指揮官にも命ぜられた。
また、前1300年ごろにすでに宮廷において宦官が使用されていた。


殷関連人物
湯王 紂王 妲己



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