窯場めぐり

窯場の基礎知識・窯場巡り
備 前 焼

 備前焼 簡単入門

 日本を代表する六古窯の一つ備前焼は釉薬(うわぐすり)を使わない焼き締め陶で、およそ1200〜1250℃にもおよぶ高温で、10〜14日間窯を焚き続けます。このとき燃料に使用する松割木の炎が、直接作品に作用して、一つずつ固有の神秘的な模様を作り出します。これがいわゆる自然釉や窯変と呼ばれ、その模様の種類によって(下画像左から)胡麻(ごま)、玉だれ、火牡丹(ひぼたん又はぼた餅)、桟切り(さんぎり)などに区別しています。又、作品の表面にワラをを当て、直接炎が当たらないように焼き上げて、美しい緋色を出す緋襷(ひだすき)などもよく知られています。

参考サイト:備前ノート

備前焼概説

 備前焼は、釉薬を一切かけず、絵付もせず、ただ陶土そのままを形作り、窯に入れて焼いただけのもので土の味が直接そのまま器の味になっている。しかし、それは単に偶然に出来上がったものではなく、一塊の土から幾多の手順を経、長い時間をかけて丹念につくられた陶土が、千数百度の炎にあおられ、さまざまに変化を受けた姿なのである。言ってみれば、自然と人間のおりなす一つの宇宙、それが備前焼なのである。また、六古窯の一つとして今や備前焼は日本を代表する焼き物の産地となっている。
 備前焼の歴史は古く、現在の岡山県邑久郡一帯で古墳時代より須恵器の生産を営んでいた工人たちが、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、熊山のふもと備前の地で生活用器の碗・皿・盤や瓦の生産を 始めたのがその始まりと言われている。鎌倉時代から室町時代にかけては、山土を使用した壷・擂鉢・甕が多く作られるようになり、 またこの頃から備前焼特有の赤褐色の焼き肌が出てくるようになる。 ところが室町時代後期になると、山土に変わって田土が使用され、ロクロが用いられ、量産ができるようになり、 半地上式の穴窯が作られるようになった。 そして各地の窯が統合され、南・北・西に大規模な共同窯(大窯)が築かれ、 窯元六姓(木村・森・頓宮・寺見・大饗・金重)による独占的生産が行なわれるのである。 一方器種においても、日常雑器の他に、茶道の流行による茶陶器が作られるようになる。 これら大窯による生産は、以後江戸時代末期まで続くのである。江戸時代も中期に入ると、 備前焼は藩の保護もあって全国に普及していった。しかし、それも末期に至ると、唐津や瀬戸において陶磁器の生産が行われるようになり、次第に備前焼は圧迫されていったのである。近代の備前焼、特に明治から昭和初期に至る時期は低迷の時代であった。そのような時においても地味な努力はされ、個人窯が築かれるようになるのであるが、備前焼だけでは成り立たないため、土管や耐火煉瓦の生産も行うようになるのである。この衰退した備前焼を現在の繁栄に導くきっかけを作ったのが故金重陶陽であり、それを継起に多くの人々が努力を重ね、今日の備前焼を作ったといえる。


備前の街をゆくT

 

 赤穂線伊部駅周辺にはたくさんのお店や窯元が密集しており、陶磁器愛好家にはよだれが出るほど嬉しい。ウィークデイにもかかわらず大勢の人たちが散策を楽しむ光景はさすがにメジャーな陶の里と再認識される。
 全てをじっくり見て回るにはとても一日や二日では足りない程の店数と内容深い町並みは、古来からの歴史を刻み、我々を包み込むようだ。ここには作陶家が150人以上おり、人間国宝を多数輩出している。
 現在窯元としては20軒あまりがあるが、その中で、少し変わった名前の「鬼ヶ城窯」を訪ねた。備前警察の裏手の田んぼの中の寂れたお店という印象で右画像はお店の前に無造作に並べられている大甕・小甕。この場所には窯はなく、少し離れた山すそに窯があるとのこと。中に入ると、棚に並べられた焼締陶の他、色々な物が置いてあった。ここは駅から少し離れていることもあり、価格は安めに設定されているようだ。その中からぼた餅の角皿をお土産に買ったが、値札よりさらに2割引いてくれるということの嬉しさもあり、飾り気のない人柄の奥さんと話が長くなってしまった。

 備前は千年の間火を絶やすことがなかった窯場である。当然六古窯当時の古窯跡も多数残っている。江戸時代(天保年間)に作られ昭和初期まで使われたという「天保窯」もその一つ。注文にすぐ応じられるように小型に作られた窯で別名「融通窯」とも呼ばれたそうで現在一基のみが保存されている。当時は「八昼夜だて」と言い八昼夜連続でたいたという。当時の備前の繁栄と栄華を偲ばせる窯は、役目を終えてひっそりとたたずんでいた。




備前の街をゆくU(制作中)

天保窯     詳細画像

天津神社  備前焼の狛犬






森陶岳 世界最大の登り窯(寒風窯)

  牛窓町長浜の寒風(さぶかぜ)丘陵に森陶岳さんの工房がある。そこには全長90メートルを超す巨大な登り窯の上屋がそびえる。森陶岳の10年を超えるプロジェクトで、完成すればもちろん古今東西最大。2008年の火入れをめざし、すでに窯の半分ほどが出来あがっている。「陶芸人生のすべてをかけた挑戦です」と穏やかな口調ながら並々ならぬ闘志をみなぎらせる。 
 登り窯は幅6メートル、高さ3メートルの直炎式半地下構造。登り窯は通常10メートル前後、長くても20メートルだ。この窯で大甕(がめ)(高さ1・8メートル、重さ300キロ)150個と雑器類約200点を約1200度で焼きしめる。燃料のアカマツは10トン車で200台分という。(右画像は寒風窯の一番先端の焚き口)

 牛窓町は、備前焼のルーツ・須恵器(すえき)の窯跡群が点在する。森さんは20年前から、この適地で構想を練り、53メートルの大窯で実験を積み重ねた。窯づくり、大甕の制作、燃焼具合を見定める空だき、窯詰め、燃料の確保−−。3年後の冬を目指す火入れまでに、乗り越えるハードルはまだ幾重にも立ちはだかる。登り窯への挑戦は、室町半ばから桃山時代の「古備前」大窯の力強さ、美しさに魅せられてのことだ。「高レベルの焼き物に、個人の能力がどこまで迫れるか。経済的、時間的にも、到底1人ではできない。みんなの協力で、焼き物の将来性を左右する感動ある作品を生み出したい」(右画像は、窯の両脇には赤松の薪がぎっしり詰まれている)

 森陶岳は岡山県備前郡伊部に生まれる。父は窯元六姓家の森秀次。1959年岡山大学特設美術科を卒業ののち、1962年郷里にて作陶活動を始める。1963年日本伝統工芸展に初入選し、以来入選を続け、1966年日本工芸会正会員となる。砂壷,彩文土器などが評価され1969年日本陶磁協会賞受賞。陶片や資料をもとに大窯による焼成研究を重ね、1972年兵庫県相生郡西後明に大窯を築窯、1979年完成。翌年火入れを行い60日間に及ぶ焼成を経て備前大甕・大壷を完成さえその評価を確立。その後岡山県牛窓町の寒風陶芸の里に53メートルにも及ぶ直炎式登窯の大窯を築き、1985,94年に焼成。室町期に最高水準に達した大窯による備前焼の解明に取り組む。1996年岡山県重要文化財保持者に認定。(右画像、まだ未完成の窯なので、奥に窯の造成部分が毛布やシートで養生してあるのが見える。最終的にはここまで窯が延びる。)


焼き物のふるさと 備前
窯元・作家・陶商マップ

上図赤枠内をクリックすると拡大図画が表示されます。各100kb以上の映像がありますのでご注意ください。


備前の人間国宝紹介

 

金重陶陽(1896〜1967)
 父金重楳陽について作陶。古備前の美を追求、研究を重ね、厳しく精悍な作風で桃山調の土味を出すことに成功。桃山の美を現代に甦らせて明治以来、衰退していた備前焼を現在の繁栄に導いた「備前焼中興の祖」とされる。





 藤原 啓(1899〜1983)
 文学志望の後、40歳から備前焼を始め、金重陶陽の指導を受け、単純・素朴・明快を作陶理念とし、おおらかな、温かみのある作風の「啓備前」を確立した文人陶芸家。




 山本陶秀(1906〜1994)
 楠部弥弌などの指導を受け、ろくろの達人。茶器、酒器などに名品が多く、気品溢れる繊細優雅な作風は、広く茶人に喜ばれ、「茶陶の陶秀」と云われている。




 藤原 雄(1932〜)
 父藤原啓に師事し、その作風を受け継ぎ、意欲的で近代感覚を持ちながらも、弥生土器を思わせる大らかさを持っている。備前焼の美の原点を守り、普遍的な美意識をもって作陶している。






閑谷(しずたに)学校
閑谷学校は備前岡山藩主池田光政が庶民の教育のために創設した学校。
屋根は全てが備前焼の瓦で葺かれている。

 備前焼の瓦を見るのが楽しみで訪れた閑谷学校は、山の中腹の閑静な場所に静かに、そしてどっしりとその姿を見せてくれた。広い敷地には、昔そのままの建物が保存されており、門から塀まで屋根があるところは全て備前焼の瓦葺であり、思わず見とれる程の見事さであった。折り悪く閉館期間であり内部に入ることはできなかったが外から嘗め回すように見せて頂いた。隣接して資料館や、研修センターも建てられており、もう一度訪れた時は改めてじっくり観覧したいと思いつつ現地を後にした。

 右画像は建物の一部。下画像左は正門。下右は屋根瓦のアップ。