| 有田焼 伊万里・鍋島 |
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有田焼超簡単入門
有田の町は山と山の作り出す東西に長い谷あいの町であり、この谷あいを有田川が流れ、又川に沿うようにJR佐世保線、その南に国道35号、北には旧道が走っている。町の東を「内山」と呼び、窯場と商家がびっしりと立ち並ぶ。町の西は「外山」と呼び窯場が多い。五月のゴールデンウィークには陶器市が開催されウナギの様なメインストリートが100万人もの客で溢れかえる。現在約二百数十件の焼物の店とそれに関わる商店が赤絵町を中心に約6キロの旧道をはさんでひしめいている。左画像:有田の町並み。

有田は日本の磁器発祥の地として有名だ。秀吉の命により朝鮮に出兵した鍋島藩主直茂が朝鮮の陶工、李参平を連れ帰り、有田で白磁鉱が発見され磁器の生産が始まったのである。その後、伊万里港から各地へ積み出されていたため伊万里焼とも呼ばれる様になった。尚、現在、鍋島焼の流れをくむ伊万里焼と区別するため当時の伊万里を「古伊万里」「初期伊万里」等と呼ぶ。右画像左:泉山の陶石採掘場。現在は天草陶石を用いることが多い。右画像右:日本の磁器誕生を記念する「李参平発見の磁礦地」の碑。
有田焼の磁器の種類にはその系譜から大きく染付と色絵に分けることができる。
染付は白い器肌にコバルト(藍呉須)一色で絵付けしたもので、初期の染付は景徳鎮の影響を強く受けている。色絵は中国では五彩と呼ばれ、赤・黄・黒・緑・藍の色絵の具で上絵付けするもので、この技法の普及によりさらに絢爛さと優美さが洗練された。後に染付・色絵の技法に加え金銀彩を施した「染錦手」はその独特の文様から古伊万里の大きな特徴の一つとなっている。
柿右衛門様式とは濁し手と呼ばれる乳白色の素地に上絵付した色絵磁器のことで酒井田柿右衛門家の専有の陶技とされてきたが、今日では伊万里の輸出用の最高級の物というのが定説となっている。濁し手とは、色絵をより美しく見せるために追求された素地技法で、青白く輝くばかりの白磁の器肌を柔らかくおさえ、色絵が美しく器面と融和し目にやさしく映る。又柿右衛門様式は大きく次の3つに分類される。
1.東洋的な画題による写実的な絵模様で中国風の花鳥図、風景画、人物画、草木画等。
2.やや図案風な模様
3.完全な文様描写
下画像左から、江戸時代の染付皿。2番目は柿右衛門様式による色絵松竹梅輪花皿。柿右衛門古陶磁展示室蔵。3番目は染錦手による沈香壺で江戸時代中期の輸出用の大物。一番右は鍋島焼の色絵唐花文皿。
有田皿山の大川内山には鍋島藩の御用窯があった。ここでは特別な管理体制のもと極秘に上質の色絵磁器が生産された。これが鍋島焼である。当然のごとく格調高く精巧なつくりの鍋島焼は将軍家や諸大名の献上品、贈答品として用いられた。鍋島でもっとも多く焼かれたのは木杯形といわれる高台の高い皿で大きさは三寸・五寸・七寸・尺鉢と規格化されていた。高台には独特の櫛目文様が描かれ、伝統として現代まで伝承されている。
有田焼の染付や色絵、染錦手の伝統技法は現在も続いており、又柿右衛門窯と鍋島藩窯の流れをくむ今右衛門窯の焼物も独自のスタイルを保ちつつ焼かれておりその多彩さが有田焼の魅力ともなっている。
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−伊万里・鍋島一口メモ− 有田ははるか九州にあり、なかなか訪れる機会も少ないのではないでしょうか。そんな方には関東地方でも伊万里や鍋島の真髄が見られる場所があります。足利市にある栗田美術館がそれ。ここには栗田氏が収集した世界一と言われる数々の磁器が一堂に展示されています。是非実物をご覧になり当時の陶工たちの作品をご鑑賞ください。 |
下画像左から鍋島藩窯公園。古窯跡や当時の陶工の生活を再現した家や庭園などがある。2番目は柱に抱きつく景山氏。3番目は伊万里川にかかる藩窯橋。大壺や竜の陶板をはじめ、染付の様々な陶片で飾られている。一番右は橋でたたずむ景山氏。
有田(鍋島・伊万里)の歴史
有田焼(初期伊万里)のはじまり
有田焼の歴史は1594年に朝鮮から帰化した陶工の李参平(または三平。日本名は金ヶ江三兵衛)による泉山陶石の発見に始まるといわれています。初期の頃は多久安順の保護の下、現在の多久に住み、陶器を焼いていましたが、それでは満足できず、やがて磁器の原料を探す旅に出、そして有田の泉山で理想的な陶石を発見し、天狗谷窯で磁器の製造を始めたとのがいうのが1606年頃の事とされています。
有田ではこれ以前にも、先の文禄の役(1592〜1593年)の際に連れてこられた朝鮮人陶工などが各地で陶器を焼いていましたが、磁器の製造を始めたのは李参平が初めてだったといわれています。
泉山磁石鉱の発見以来、有田の窯業はその後数十年間で急速に発展しました。その生産ぶりはたいへん盛況で、燃料用薪の乱伐がおこったため、1637年佐賀鍋島藩は山林保護と渡来陶工保護の目的で826名の日本人陶工を追放し、大幅な陶業地の整理をせざるを得なかったという記録が山本神右衛門(のちの初代皿山代官)の年譜に残っています。この事件以前は陶器もまだ数多く作られていましたが、以降、有田における陶磁器生産は皿山代官所の厳しい管理下におかれ、磁器中心の生産体制が確立されました。原初期に製造されていた李朝風の素朴なものから中国明朝風のデザインに大きく変化していったのもこの頃のことです。
その後、1643年には酒井田喜三衛門(初代柿右衛門)によって赤絵の技法が始められました(1646年という説もある)。喜三衛門は、長崎に出入りしていた商人から伝え聞いた中国の赤絵の調合法を元にして、試行錯誤を繰り返しながら求める赤い色を創り出したといわれています。庭先の柿の実の色を見ながら、理想の赤色の絵の具を創り出したというエピソードが本当かどうかは分かりませんが、それだけ赤絵の創製に対しては妥協できない思い入れがあったのでしょう。そしてこの赤絵技術の導入が有田焼の更なる発展のための原動力となったのは間違いありません。
やがて鍋島藩の積極的な保護政策のもと有田では完全分業の生産体制が確立されます。特に上絵の調合と赤絵焼成を行う「赤絵屋」は高度な技術を要する仕事であることから、藩では技術の漏れを防ぐため1672年に皿山代官所はそれまで営業をしていた赤絵専門の11軒だけを認め、それ以上赤絵屋が増加するのを制限しました(ただし1768年には16軒となる)。これらの赤絵屋が存在していた場所が、有田町内にある現在の赤絵町にあたります。現在まで続いているのは今泉今右衛門家ただ一軒のみです。
最近、赤絵町より少し東側の幸平地区でも赤絵を伴った磁器の破片が多数発掘され、まだ調査段階ではありますが、この地区にも赤絵屋が存在していた可能性が出てきたとして話題を呼んでいます。ところで町内のほとんどの赤絵業者が赤絵専門の仕事をしていたのに対し、赤絵の創始者である酒井田家だけは例外的に赤絵屋と窯焼の兼業が認められていたということです。
有田磁器(古伊万里)の輸出
1650年からは、オランダの東インド会社によって有田焼がヨーロッパの国々に輸出されはじめました(本格的には1659年から)。東インド会社はもともと中国景徳鎮の色絵磁器を扱っていましたが、明末清初の中国国内の混乱により中国からヨーロッパへ磁器を輸出することができなくなっていました。そこで中国に近い日本で生産されはじめていた有田の色絵磁器が注目され、中国磁器の代替品として有田焼の輸出が始まったということです。有田焼はヨーロッパの国々で好評で、17世紀から18世紀中盤にかけて、数百万個に及ぶ有田焼がヨーロッパへ輸出されました。特に1659年から1689年までの30年間は、東インド会社を通してだけでも毎年数万個もの有田焼がヨーロッパへ運ばれました。この時期は、いわゆる柿右衛門様式の成立から完成への時期と重なりますが、中国風のデザインとは全く異なる白い地肌と大胆な空間が特徴の柿右衛門様式は、豪華な金襴手と共に、ヨーロッパの王侯貴族に人気の高い商品だったようです。
ヨーロッパでは生活用品としてだけではなく、宮殿内部を華やかに飾る、装飾用の素材として東洋の磁器がもてはやされていました。中でもザクセン王アウグスト一世が建てたドレスデンのツヴィンガー宮殿の陶磁器コレクションの部屋や、プロイセン王フリードリヒが建てたベルリンのシャルロッテンブルグ宮殿の磁器の間は有名です。長崎県ハウステンボスのポルセイレンミュージアムには、シャルロッテンブルグ宮殿の磁器の間を再現した部屋があります。数え切れないほどの東洋の陶磁器で壁が埋め尽くされた豪華さは圧巻です。このミュージアムの壁を飾る陶磁器の数々は、現代の有田の窯元によって本物そっくりに再現されたものです。
やがて中国清朝でも康熙帝の時代になると国内も安定し、1684年にはヨーロッパへの磁器の輸出も再開されるようになりました。東インド会社の記録から、ヨーロッパに輸出された磁器製品の数は、トータルでは中国の磁器と比べると有田焼ははるかに少なかったことがわかっています。さらに18世紀初頭にはドイツの錬金術師ベドガーがヨーロッパの原料を使用した磁器の製造に成功し、中国や有田を模倣した磁器がマイセンを中心にして生産されるようになります。このようなことから有田焼の輸出は次第に縮小に向かい、18世紀中盤にはほとんど行われなくなりました。
一方有田焼の国内への流通も、17世紀中頃には既に始まっていました。18世紀になると全国各地に相当数の有田磁器が出回ったようです。ヨーロッパへの輸出が衰退する一方で内需は高まり、次第に庶民階級にまで有田焼は使われるようになりました。有田焼は伊万里港から全国に向けて出荷されたことから「伊万里焼」と呼ばれるようになりました。現在でも当時の有田焼を「古伊万里」と呼ぶ所以です。
御用窯(鍋島藩窯)・鍋島焼
鍋島藩の御用窯の起源は、1628年頃有田町の岩谷川内にはじまり(当時は御道具山と呼んでいた)、1661年、同じ町内の南川原山に移り柿右衛門を中心に盛んに生産活動が行われていたというのが一般的な説になっています。しかし南川原山が大村藩・平戸藩との藩領境に隣接していたためか、わずか11年後の1672年、鍋島藩は品質の高い磁器製造技術の流出を防ぐこと、また御用品の品質低下を防ぐことを目的とし、伊万里の大川内山に御用窯を築いたとされています。最近、伊万里市教育委員会の調査により、1650年代後半から1670年代にかけて使われた階段式登り窯の日峯社下窯跡で、1670年代以前に作られた初期鍋島の磁器片多数が見つかりました。このことから鍋島藩窯の開窯時期が見直される可能性も出てきましたが、結論を出すには詳細な調査が必要だということです。
大川内山には、有田から特に技術の優れた者が御用職人として移住し、最上級の泉山磁石を使用して献上品の製造にあたっていました。但し、上絵の調合と赤絵焼成に関しては秘密性の高い仕事であることから赤絵屋の大川内山への移住は行われず、有田の赤絵町で行われていました。赤絵町の中でも御用品の絵付けに携わっていた代表的な赤絵屋が今泉氏、すなわち今泉今右衛門でした。このようにして生産された、格調の高い洗練された製品群が、後に「色鍋島」と呼ばれるものです。今右衛門窯は現在も色鍋島を基本とした製品を創りつづけています。
鍋島焼の特徴は、なんといってもまず色彩の上品さと格調の高さにあります。染付けの青(藍)、上絵の赤、黄、緑の計4色で描かれる色鍋島の優雅な美しさ。鍋島染付や鍋島青磁の洗練された色合い。特徴的なデザインは櫛高台や青海波などで、非常に緻密な絵付けが施されています。柿右衛門の白さとは異なるやや青みを帯びた地肌も特徴ですが、絵柄の色と良く合い、色彩的にも完璧な、ひとつの世界を形作っています。採算性を全く考えずに磁器製造を行うことができる、御用窯ならではの製品であるといえます。現在の伊万里の大川内山には鍋島焼の作風の伝統を守る老舗の窯も幾つかあり、独特の文様の製品が作りつづけられています。
近代、現代への流れ
有田の磁器が庶民階級まで普及してくるにつれ、次第に量産の時代に入り、技術的にはやや雑な製品も多くなってきました。例えば代表的な文様の一つである「蛸唐草」が時代を追うにつれその筆使いに丁寧さを失い、簡略化されていくなど、デザイン的にも有田焼は変化してきました。また、磁器製造の技術は次第に瀬戸や砥部など、全国各地に伝わっていきました。
1828年8月7日、有田でおこった文政の大火によって、ほとんどの窯が全焼してしまうという大惨事となり、200年以上も繁栄を誇っていた有田の町は壊滅的な打撃をうけました。このことによって、住む家も職も失った陶工たちの多くが波佐見や三川内など周辺の磁器産地に移住し、肥前地区全体の陶磁器製造の技術が向上したのではないかという見方もあるようです。特に武雄藩の小田志山には100名以上の陶工が移住したといわれています。19世紀中盤の幕末の頃になると有田焼は再び隆盛を取り戻し、輸出も再び盛んになってきました。1866年のパリ万博には薩摩藩とともに佐賀藩も出品し、この時出品された有田焼製品の数々はたいへんな好評を得たそうです。
明治に入ると、有田の陶磁器産業は次第に近代化の様相を呈してきます。その一翼を担ったのが、ドイツ人化学者、ゴッドフリード・ワグネルでした。ワグネルは磁器製造の過程で起こる現象に化学的な解釈を加え、呉須に代わるコバルトを原料とした染付けを導入したり、高価なイス灰釉に代わる石灰釉を提案するなど、数々の業績を残しました。1873年のウィーン万博にはワグネルも参加していますが、その際、陶芸研究員として同行した納富介次郎や川原忠次郎などが博覧会終了後、ワグネルの紹介でしばらくヨーロッパにとどまりヨーロッパ磁器の技術を習得しました。そして帰国後、合理的な窯積みの方法や石膏型による鋳込み成形など、さまざまな技術を広めたといわれています。しかしながら、新しい技術には反発がつきもので、例えば、コバルト希釈法による染付けは、色合いが明るすぎるとか、イス灰以外のもので作られた釉薬は有田焼の地肌には馴染まないといった抵抗がありました。現在ではコバルトを使った合成呉須や石灰釉の使用は一般的になっています。
泉山陶石と混じって使用されはじめた天草陶石についても同様の反発がありました。天草陶石は熊本県産の白い磁石で、平戸藩の三河内山では18世紀前半には磁器の主原料として使用されていたといわれています。有田においても江戸時代にはすでに一部で天草陶石が泉山陶石に混入されはじめていました。泉山陶石は可塑性が乏しく、硫化鉄を多く含むため色が悪くなる、などの問題があったため、カオリンを多く含み鉄分の少ない天草陶石への移行はある意味で必然だったといえるでしょう。しかし、あくまでも泉山陶石を主原料にという保守的な考え方は根強く、周辺の他の産地が天草陶石に傾倒していく中、明治時代の中期でさえ、天草陶石を配合して作製された磁器は純粋な有田焼としては認められないという風潮がありました。しかし次第に天草陶石への移行は進み、明治35年、それまで泉山陶石を原料にした製品しか出品が認められていなかった品評会においても、ついに天草陶石を原料とした製品の出品が認められることとなりました。さらに昭和の初期になると泉山陶石の使用比率は30%を割り込むようになり、本格的な天草陶石への転換は避けられなくなります。現在では泉山陶石はタイルや耐酸磁器などの一部の原料として使われているのみで、食器等に関しては天草陶石が有田焼の主原料として使用されています。
現在の有田は、食器の生産が中心であることに変わりはありませんが、タイル、碍子、耐酸磁器、ファインセラミックス製品など工業製品の製造も行われており、周辺の伊万里、波佐見、三川内などの地区も含めた肥前窯業圏の中核をなす存在でありつづけています。
現在の伊万里焼

明治4年の廃藩置県により鍋島藩がなくなって後、その流れを汲んだ窯場では、格調高い御用窯時代の伝統美を受け継いだ焼き物を作っている。これが現在の伊万里焼と呼ばれるもので、古伊万里(有田焼)とはネーミングの点で混乱を招くが、現在の有田焼とは異なった焼物として発展している。
伊万里焼の窯元は現在約30軒。窯場となっている大川内山への入り口にはかつての関所が再現され、藩窯時代の陶工の家、トンバイ橋、窯跡などを配した藩窯公園もあって観光客でにぎわう。伊万里川の河口付近には伊万里津大橋には1.5メートルの大壺2基が裸のまま置かれ、過去の栄光を今に物語っている。 左画像は藩窯公園入り口看板。右画像はかじりつく景山氏。
下画像左は大川内山の鍋島藩窯橋。色鮮やかな大壺、染付の竜の陶板をはじめ、様々な陶片で飾られている。下画像右は鍋島藩窯橋でくつろぐ景山氏。



左画像は伊万里津大橋の大壺。右画像は陶板でつくられた市内図の前にてポーズの景山氏。
下画像左から、現在の窯元のひとつ青山窯。道端に見られる小型の登窯。上絵付けの筆として使用される濃(だみ)筆と、一番右は絵付けの様子。




下画像、880余りの墓石を重ねた無縁陶工の墓は当時の厳しい藩窯制度の隆盛を偲ばせている。

有田市内の主な窯元(制作中)
| 窯元名 | 所在地 | 電話他 | 特徴 |
| 弥源次窯 | 有田町応法 (中部丙3751) |
TEL:0955-43-2094 FAX:0955-43-4333 |
− 器のなかに笑顔がうつる − 料理が主役の器づくりを大切にしています。 |
| 徳幸窯 | 有田町応法 | TEL:0955-42-2888 FAX:0955-42-3095 email:tokko-g@po.saganet.ne.jp |
創業慶応元年から、現在まで窯の火を絶やすことなく、焼き続けております。高級料亭や旅館で使われる割烹食器を主に焼いております。 |
| 掛ノ谷窯 (武堅窯) |
有田町応法 (中部丙3612) |
TEL:0955-42-4141 FAX:0955-42-4574 email:shinwatoujiki@shinwatoujiki.co.jp |
業務用食器製造・販売、一般家庭用食器製造・販売。 |
| 吉右エ門窯 | 有田町応法 |
TEL:0955-42-2724 FAX:0955-42-3135 |
かわいい〜1閑人(人形)の附いている、茶碗や皿など。 |
| 瑞峯窯 | 有田町応法 |
TEL:0955-43-2241 | |
| 伝作窯 | 有田町応法 (中部向島3576−17) |
TEL:0955-43-2724 FAX:0955-43-3577 email:densaku@po.saganet.ne.jp |
有田焼でない有田を作ってます。 |
| 親和・伯父山 (えむ絵夢) |
有田町応法 (中部丙3565) |
TEL:0955-43-3141 FAX:0955-43-3359 |
「パステルトーンの不思議な国」えむ絵夢 女性デザイナーによるメルヘンの陶磁器の世界です。 |
| 滋山窯 | 有田町応法 |
TEL:0955-42-4895 | |
| 藤太郎窯 | 有田町黒牟田 | TEL:0955-43-3355 FAX:0955-43-3360 |
手書き手作りで染付けの器を作っております。 ご来場の皆様に湯茶を準備しております。お気軽にお立ち寄り下さい。 |
| 利久窯 | 有田町黒牟田 (中部丙3522) |
TEL:0955-42-2971 FAX:0955-42-3534 |
主に業務用食器を制作していますが、陶器市には一風変わった手づくり製品や、若手の無名陶工たちの作品なども販売しております。 |
| 梶貞窯 | 有田町黒牟田 | TEL:0955-42-3532 FAX:0955-43-2416 email:ailto:kajisada@po.saganet.ne.jp?Subject=九窯会HPより |
「食卓に潤いを」をテーマに家庭用食器及び営業よう食器を制作しております。お気軽にお立ち寄り下さい。 |
| 源右衛門窯 | 有田町丸尾2726 | TEL:0955-42-4164 FAX:0955-43-3587 email:mailto:gen-emon@nifty.ne.jp?Subject=九窯会HPより |
古伊万里の伝統技法を守りながら現代のさまざまな暮らしの中で、お楽しみ頂ける器を提案しております。 |
| しん窯・青花 | 有田町黒牟田 | TEL:0955-43-2215 FAX:0955-43-2889 email:mailto:seika@po.saganet.ne.jp?Subject=?a?q‰iHP?a?e |
我が社のテーマは「器と語らい」です。楽しい器づかいや暮らしの提案を発信しながら、温かく控えめで、飽きのこない食器作りを目指していきます。 |
| 福丈窯 | 有田町黒牟田 |
TEL:0955-42-3303 | |
| 西山徳右エ門窯 | 有田町黒牟田 (中部丙3448) |
TEL:0955-42-2306 FAX:0955-42-2306 email:mailto:takkan@aurora.ocn.ne.jp?Subject=九窯会HPより |
創業450年の歴史を受け継ぐ徳右エ門。 陶面いっぱいに光り輝く燿変、油滴天目の神秘的な世界をぜひお楽しみ下さい。 |
| 梶謙製磁社 | 有田町黒牟田 | TEL:0955-42-3177 FAX:0955-43-2876 |
新作の器を使って、いろんなおもてなしの提案をしていきたいと思います。ご来場の皆様に梶謙風ティータイムを楽しんで頂きたいです。 |
| 隠居屋 | 有田町黒牟田 (中部丙2904−3) |
TEL:0955-43-4366 FAX:0955-43-4368 email:mailto:inkyoya@dokomo.ne.jp?Subject=九窯会HPより |
楽しい器、使える雑貨、皆が喜ぶ焼き物多種多様。 |
| 円左エ門窯 | 有田町黒牟田 | TEL:0955-42-4503 FAX:0955-42-2505 |
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| 杉原一壷窯 | 有田町黒牟田 (中部丙3146-7) |
TEL: 0955-42-2489 FAX: 0955-42-3252 |
白磁透かし香炉を主に作っています。床の間意外にも玄関・サイドボード・トイレにと場所を深く考えず、気軽に楽しんでもらいたいと思います。 |
| 有華窯 | 西有田町大字川口甲1252−12 | TEL:0955-46-5060 FAX:0955-46-5060 |
一つの器がいろんな器に様変わり。あなたのアイデアを生かした盛り付けを!そんな自由な器です。「ゆうか」の器は窯元市のみの限定販売です。 |
| 市喜窯 | 西有田町大木甲1975 | TEL:0955-46-3939 FAX:0955-46-5355 email:h-ichiki@po.saganet.ne.jp |
創業大正5年、石焼風の厚手で暖かみのある器。飾る為だけではなく、日常使いの味 |
| 金ケ江陶磁器 | 有田町黒牟田 (中部丙3002−5) |
TEL:0955-42-5800 FAX:0955-42-6968 |
ご家庭の食器をお手頃価格にて取り揃えています。御歳暮品も受け賜ります。 |
| 艸窯 | 有田町中樽2-28-14 うーたん通り | TEL・FAX:0955-42-3846 e-mail:sougama@qs-net.com |
MARBLE WARE という、練り上げ技法で作られる作品たち。古くから伝わる技法ですが、工程の手間がかかり、使用しない部分が多いなどコスト面からも今ではほとんど作る人がいないのが現状です。多くを生産できないために、私たちはひとつひとつに思いをこめて作り上げます。それが独特の温かみとやわらかさを生むのだと思います。 |
伊万里市内の主な窯元(制作中)
| 窯元名 | 所在地 | 電話他 | 特徴 |