実に、微妙な気分を味わった。
どうしてあの子は僕に話しかけてきたんだろう。
あまつさえ、花瓶の水を掛けてきたんだろう。
こんなことは、高校で過ごしてきた中で初めての経験だった。
僕は、人から避けられていたはずだ。
他人を見るという僅かな接触があっただけで相手が泣き出すほど、
嫌われ忌避されていたとずっと思っていたのに。
……我慢も限界になって、衝動的に攻撃してしまったんだろう。
それでいいや。
いや、よくない。
あの子は、小さな声で「ごめんなさい」と言っていた。
きっと、本当はやりたくなかったから、ああいうことを言ったはずだ。
僕に声を掛け、水まみれにしなければならないほどの、
何かの理由があったんだ。
考えれば考えるだけ、僕の心は絶望に侵食されていく。
結局のところ、非日常にあたる出来事は他に何も起こらず、
長い長い今日の授業が、全て終わった。
それでもなお、僕は「ごめんなさい」の一言を引きずっていたが、
学校という束縛から解放される喜びから、苦悩も軽減されていた。
帰りのホームルーム。
相変わらず、先生は必要以上に長ったらしい話をしている。
要約すると「交通事故に気をつけて」の一言で済んだ。
みんな帰りたがってるんだから、引き止めなくたっていいのにと思う。
交通事故なんて、気をつけてどうにかなるもんじゃない。
そもそも、僕に対しては何の心配もないのに、間接的とは言えこんな話を聞かされるなんて。
もし僕が交通事故で死んだとしたら、間違いなくみんなは喜ぶだろう。
気をつけてと言った先生ですら、本心では喜ぶだろう。
……多分、家族も。
死んでいい人間なんて一人も居ないとはよく聞くけれど、
僕は、数少ない例外の内の一人だと思う。
死後の周囲の反応には興味があるけれど、結果が分からないのでは本末転倒だ。
なにより、こんなゴミのような僕でも、死ぬのは怖い。
「きりーつ」
「れーい」
「さようならー」
クラス一同から無気力な声が発せられた。
ともかく、今日はこれで終わりなんだ。
こんな居心地の悪いところに居る必要はない。
家でゆっくり考えればいい。
ずっしりと重いカバンを持ち上げ、昇降口に向かう。
さっきのように、特別なイベントに遭遇するんじゃないかと考えていたが、
いつも通り、通路では誰の姿も見ることはなかった。
念のため早足で歩いたが、昇降口でも人の気配は感じない。
ほんの少しだけ、安心した。
下駄箱最上段、左から3番目の扉を開ける。
適当に中を探って、外靴を取り出した。
取り出した手には、見紛う事なき自分の靴。
そして、白い手紙があった。
途端、僕は得体の知れない恐怖に襲われた。
僕は、他人から無視されている生活が当然だったはずだ。
わからない。
手を出されるような事は高校になって一度もなかったのに、
今日になって他人から存在を認識された。
このまま、人間として相手をされはじめてしまったら。
水を掛けるような行為が、さらにエスカレートするのだろうか。
心配の要らない生活が壊れていく情景が、いとも簡単に浮かび上がった。
無意識に、僕は家へと走り出した。
怖い。
わけがわからない。
今、何かと出会ったら、何が起きるかわからない。
水を掛けられた時のように、見知らぬ人に何かされるかもしれない。
交通事故で、死んでしまうかもしれない。
何か、怖いことが起きてしまうかもしれない。
手紙とカバンを握り締め、狂ったように走った。
ご近所さんが居たかどうかなんて、全く記憶になかった。
意識が戻った時、僕は部屋のベッドに横たわっていた。
あれだけ太陽が照り付けていたのに、外は既に真っ暗だ。
寝ていたのだろうが、あれが夢なのか現実なのかがはっきりしない。
記憶が所々断片化しているし、最後の方なんて全く覚えていない。
「……夢にしよう」
夢にした。
決め付けた。
垂れ下がった紐を引っ張って、部屋内の電気をつける。
同時に、自分の馬鹿さ加減を思い知らされた。
一も二も無く、夢から現実に引き戻された。
机の上には見覚えのある、しわくちゃの白い手紙。
しかも、何故か封が既に切られている。
僕は横に置いてあった、中に入っていたであろう用紙を手に取り、
恐る恐る内容を確認した。
メールしませんか。
○○○○○○@mailaddress.com
それだけが、書かれてあった。
第三話 終