ああ、もう学校に行く時間だ。
まだ読み終わっていないのに。
ネット上で見つけた漫画に後ろ髪を引かれつつ、
僕は泣く泣くパソコンの電源を落とし、学校に向かった。
昨日とは違い、通学途中に家族もご近所さんも見ることはなかった。
「明日2.5階にある部屋に来て。そこで話しますので。」
昨夜『透明人間』について問い詰めようとしたところ、
それ以降の返信を、この文章でぷっつりと打ち切らされた。
そのお陰で、僕はそれから2.5階の意味と透明人間の存在について、
もやもやした気分で考えさせられている。
まだ、答えは出ていない。
透明人間なんて、絶対にいるわけがない。
そんな常識ですら、ここ最近の出来事を思い出すと疑心を抱いてしまう。
ただ単にいたずらだっただけかもしれない。
実は呼び出すための口実で、不良のグループに殴られたり蹴ったりされるのかもしれない。
けれど僕は、透明人間の存在に賭けていた。
あれから変わりつつある自分と唯一分かり合える人が欲しかった。
いつの間にか、僕は独りで過ごすのが怖いと感じるようになっていたから。
他人から見れば馬鹿げているとしか考えられない希望的観測のおかげで、
僕はうきうきした気持ちで学校の門をくぐることができた。
『透明人間』さんがいるのは2.5階。
2.5階は2階と3階の間、恐らく階段途中の踊り場のことだろう。
部屋というのは、本当に階段の途中に部屋があるか、
もしくは広く開けたそこ自体を指しているのかのどっちかだと思う。
授業が始まる前にそれを探して、昼休みにでも会いに行けばいいな。
よし、決まり。
今日の行動予定が大体決まったところで、教室へと歩くスピードを速める。
歩いてくる教頭先生も今日はいない。
門の脇に立って整容の指導をしている先生の姿も見えない。
隅に寄って、僕が通り過ぎるのを待つ生徒も誰もいない。
……あれ?
耳をすましても、騒ぎ立てる生徒の声が微塵たりとも聞こえない。
念のため、腕時計から日付と時刻を確認する。
……平日で、いつも僕が通っている時間だった。
電波時計だから、日時がずれる訳がない。
この時間は始業寸前で、毎日のように慌てて走ってくる生徒の姿をよく見かけたのに。
嫌な予感に憔悴しつつ、昇降口へ急いだ。
靴を履き替え、ドアを開けてすぐ、周囲を見渡す。
気持ち悪いくらいに静かなうえ、人の姿がない。
職員室の方を見る。誰もいない。
走る。
体育館に着く。誰もいない。
走る。
保健室に着く。誰もいない。
この異常な状況に怯えながら、僕の通う教室に向かった。
ガラッ
秒針の進む音が、とても大きく聞こえた。
「うわああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
独りという怖さに勝てず、僕はカバンを放り出してがむしゃらに走り出した。
叫んだ。
とにかく叫んだ。
僕はここにいるとアピールするつもりで、ひたすらに叫んだ。
どうせ誰からも返事は来ないことくらいは、分かっていた。
* * * * *
叫ぶだけ叫んだら、頭の中がすっきりした。
冷静な思考も戻り、この状況が意味することも分かった。
僕は、人間から完全に見放されたようだ。
僕一人だけがこの街に残され、周りの人間は残らず全て移住した。
ありえない状況だけど、それ以外に想像が付かない。
『透明人間』の件も、この状況を比喩したいたずらだと、ぼんやりと理解してきた。
僕があれほど持っていた『透明人間』への期待が、顕著に薄れていくのを感じた。
半ば諦めの境地に入りつつ、2.5階の部屋を探し始める。
最初に到着した2.5階を目にした時、メールに書かれてあった「部屋」の意味を理解した。
部屋とは、つまり用具室のことを言っていたのだった。
中はそれなりに広く、壁に沿って作られた棚に雑巾やモップの予備などが置かれている。
大掃除の時、あそこから床を綺麗にするために洗剤を取り出したのを思い出した。
ドアノブを捻り、軽い気持ちで扉を開けた。
「あは、来てくれた」
頭が真っ白になった。
人がいた。
僕に話しかけてくれた。
独りじゃなかった。
僕は、見捨てられてなかった。
「……うっ……ひぐっ……ぐずっ」
なんだかよく分からないうちに、僕は泣いていた。
「あっ、大丈夫だよ、不透明人間だからって嫌ったりしないから」
初めてうれし泣きをした。
うれしくて、うれしくて、死にそうだった。
「……あ、ありが…とう……うっく……」
とりあえず、たくさん涙を流した。
10分は、その状態が続いた。
あんまり泣きすぎて、相手から「脱水症状にならないよね?」なんて言われたくらいだった。
「落ち着いた?」
「はい、おかげさまで……」
「そっか、それはよかった」
こんなに優しく接してくれた人に会ったことがなかったせいか、僕はかなり緊張していた。
「あ、分かってると思うけど、私は透明人間だよ」
「そうなんですか……」
「『不透明人間』のあなたには私が見えると思うけど、普通の人には私は見えないの」
「ああ、そうなんですか……」
「……そうなんですか、って口癖?」
しまった。
「いやそういうわけじゃないんです、すいません」
「あ、気にしなくていいよ、私も構わないし」
「はい」
人と話すのがこんなに大変だとは思いもしなかった。
他人の会話を聞いている時は難しいように思えなかったが、
いざ話すとなると動揺してしまう。
「えーと……『不透明人間』ってただ嫌われてただけだと思ってたんだけど、何かの能力なんですか?」
「うん、私もよく分からないんだけど、他人を遠ざけるオーラみたいなのがあるみたい」
「そうだったんだ……」
何もかも初耳だ。
話される内容が非現実的すぎて、うまく理解できないところもあるけど、
大まかな僕の能力みたいなものだけは分かった。
「うーんと……じゃあ透明人間っていうのは……」
「あ、透明人間っていうのはね、その名の通り普通の人からは見えない人なの」
「そこは名前通りなんですね」
「そう、それともうひとつ」
「まだあるんですか?」
「透明人間からも、普通の人が見えないの」
僕は、その状況がもたらすであろう孤独感を、
似たような状況下で身をもって体験したことを即座に思いだした。
まるで別世界に隔離されたような、どうしようもない恐怖だった。
「僕が普通の人からも、あなたから見えたのも、その中間だったからなんですね」
「おぉ、よく分かったね、その通りだよ」
「だから、僕が人目につかないために、こんな場所を用意してくれたんだ」
その言葉を言い切った瞬間、何とも言えない違和感が体中を駆け巡る。
「……あれ」
「どうかした?」
「今日って、平日だよね」
「うん、だから学校に来たんでしょ?」
「祝日でもないよね?」
「そうだけど」
「……誰もいなかったんだけど」
「どこに?」
「学校に」
それを聞いた彼女は、額に手を付けて考える仕草をとった。
「普段は見えてるよね?」
「見えてるよ」
「今日になって、突然見えなくなったんだ?」
「うん、みんな一斉に移住したんだと思ってたんだけど」
「それはないよ、まず学校の鍵が開いてるじゃない」
「あぁ、じゃあみんな居るのか」
自分で言った言葉に、自分で反応した。
それほど、衝撃的な言葉だった。
「みんな居る?」
「うん、みんな居るよ」
「じゃあ、俺が見えてないだけなの?」
「そう、なんだか君も……」
彼女は、はっとした表情を浮かべ、
世間話をするかのごとき口調で、
一生僕の記憶に残るであろうとんでもない発言をした。
「なんだか君も、透明人間になったみたいだね」
「……みたい……だね」
こうして、僕の透明人間としての生活が始まった。
第五話 終